翌朝。



蓮は駅の改札前で、三十分も前から待っていた。



白いシャツにジーンズ。シンプルだが、何度も鏡の前で確認した。



「まだ時間ある...」



スマホを確認する。午前九時四十分。



約束は十時。



でも、落ち着かない。



何度も改札を見る。



そして──



「蓮さん!」



声がした。



振り返ると、あかりが手を振って駆けてくる。



淡いブルーのワンピース。風に揺れる黒髪。



蓮は息を呑んだ。



「可愛い...」



思わず口に出てしまった。



「え?」



「あ、いや!その...今日の服、似合ってるなって」



「ありがとうございます!蓮さんもカッコいいです」



二人とも顔を赤らめる。



「じゃあ、行きましょうか」



「はい」



並んで歩き始める。



距離は少し遠い。



でも、お互いを意識しすぎて、これ以上近づけない。







最初に向かったのは、公園だった。



「ここで、最初のレッスンです」



あかりがノートを開く。



「恋愛リサーチ計画、第一弾。デートの基本です」



「デートの...基本」



「はい。まず、手を繋ぎましょう」



「て、手を!?」



蓮は驚いて後ずさった。



「だって、恋人同士なら手くらい繋ぎますよね」



「そ、それはそうですけど...」



「春樹と美月も、デートシーンで手を繋ぐでしょう?」



確かに、台本にそういうシーンがある。



「分かりました...」



蓮は覚悟を決めて、手を差し出した。



震えている。



あかりの手が、そっと重なる。



「...っ」



電気が走ったような感覚。



柔らかくて、温かい。



「ぎこちないですよ、蓮さん」



「す、すみません」



「もっとリラックスして。こう、自然に」



あかりが指を絡めてくる。



蓮の心臓は、破裂しそうなほど速く打っていた。



「これで、恋人繋ぎですね」



「恋人...繋ぎ」



「さあ、歩きましょう」



二人は手を繋いだまま、公園を歩き始めた。





春の公園は、カップルで溢れていた。



みんな幸せそうに笑っている。



「周りのカップル、見てください」



あかりが言う。



「え?」



「観察するんです。どうやって手を繋いでるか。どんな距離で歩いてるか」



なるほど、これが「リサーチ」か。



蓮は周りを見渡した。



確かに、みんな自然に手を繋いでいる。



笑顔で会話している。



「蓮さんも、もっとリラックスしてください」



「でも...」



「これ、演技の練習ですから」



演技の練習。



そう、これは本物じゃない。



でも、あかりの手の温もりは本物だ。



「蓮さん、私の顔を見てください」



「え?」



顔を向けると、あかりと目が合った。



近い。



すごく近い。



「恋人同士なら、もっと相手を見つめますよね」



「そう...ですね」



あかりの瞳を見つめる。



大きな黒い瞳。



その奥に、何かが揺れている。



「蓮さんの目、綺麗ですね」



「あかりさんも...」



二人は立ち止まって、見つめ合った。



時間が止まったような感覚。



周りの音が消える。



あかりの顔が、少しずつ近づいてくる――



「ママ、見て!わんちゃん!」



子供の声に、二人は我に返った。



「あ、ごめんなさい!」



あかりが慌てて距離を取る。



「い、いえ、こちらこそ」



蓮も慌てる。



今、何が起きそうになったんだ?



「つ、次のレッスンに行きましょう!」



あかりが無理に明るく言った。



「は、はい!」



二人は気まずい空気のまま、歩き始めた。



でも、手は繋がったままだった。





次に向かったのは、カフェだった。



「ここで休憩しましょう」



あかりが言う。



窓際の席に座る。



向かい合わせ。



「何を飲みますか?」



「アイスコーヒーで」



「私はカフェラテにします」



蓮が注文しに行こうとすると、あかりが止めた。



「待ってください」



「え?」



「デートでは、男性が注文するのがスマートですよね」



「あ、そうか」



「でも、その前に」



あかりが立ち上がって、蓮の隣に座った。



「女性の好みを聞いてあげてください」



「好み...ですか」



「はい。砂糖は何個入れるか、ミルクは多めがいいか、とか」



「なるほど」



蓮はメモを取るように頷いた。



「あかりさんは、どうですか?」



「私は...砂糖一つで、ミルクは普通量で」



「分かりました」



蓮は立ち上がって、カウンターへ向かった。



注文を終えて席に戻ると、あかりが笑顔で言った。



「完璧です」



「ありがとうございます」



「でも、一つ忘れてます」



「え?」



「笑顔です」



あかりが蓮の顔を覗き込む。



「蓮さん、ずっと真面目な顔してます」



「あ...すみません」



「謝らないでください。笑ってください」



「笑う...」



蓮は無理に笑顔を作った。



「それ、怖いです」



「え...」



「もっと自然に。楽しいことを考えてください」



楽しいこと。



蓮は、今日のことを思い出した。



あかりと手を繋いだこと。



見つめ合ったこと。



自然と、笑顔になった。



「そう!その笑顔です!」



あかりが拍手する。



「すごく素敵です、蓮さん」



「ありがとうございます」



「それが春樹の笑顔です。美月に向ける、優しい笑顔」



そうか。



これが、春樹の表情。



「あかりさん...すごいですね」



「え?」



「こうやって教えてくれて。すごく分かりやすいです」



「それは...蓮さんが素直だからですよ」



二人は笑い合った。



さっきまでの気まずさは、もうなかった。





カフェでの休憩後、二人は映画館に向かった。



「次は、映画デートです」



「映画...」



「恋人同士がよく行く場所ですからね」



チケットカウンターで、蓮がチケットを買う。



「二枚、お願いします」



「かしこまりました」



あかりが隣で微笑んでいる。



「スマートですよ、蓮さん」



「本当ですか?」



「はい。女性は、エスコートされるのが好きなんです」



チケットを受け取り、シアターに入る。



選んだのは、ロマンティックコメディ。



「この映画、評判いいんですよ」



「そうなんですか」



二人は並んで座った。



暗くなった場内。



スクリーンに映画が映し出される。



蓮は映画に集中しようとしたが、隣のあかりが気になって仕方ない。



笑うシーンで、あかりが笑う。



その笑顔が、スクリーンより美しく見える。



感動的なシーンで、あかりが涙を拭く。



蓮は思わず、ハンカチを差し出した。



「あ、ありがとうございます」



あかりが小声で言う。



「いえ...」



目が合う。



暗闇の中、二人の距離が近づく。



肘掛けに置かれた手が、触れ合う。



「...っ」



お互い、驚いて手を引っ込める。



でも──



蓮は勇気を出して、もう一度手を伸ばした。



あかりの手に、そっと重ねる。



あかりは驚いたように蓮を見た。



でも、手を離さなかった。



映画の残り時間、二人は手を繋いだまま過ごした。







映画が終わり、外に出た。



「どうでしたか?」



あかりが聞く。



「良かったです。映画も、その...」



「その?」



「あかりさんと一緒に見られて」



顔が熱い。



でも、言いたかった。



「私も...すごく楽しかったです」



あかりも頬を染める。



「これ、本当にリサーチなんですか?」



蓮は思わず聞いてしまった。



「え?」



「だって...こんなに楽しいなら、本物のデートみたいで...」



「それは...」



あかりが言葉に詰まる。



二人は立ち止まった。



人通りの多い通り。



でも、二人の周りだけ時間が止まったよう。



「蓮さん」



「はい」



「これは...リサーサルです」



あかりが言った。



「リハーサル...」



「本番じゃないんです」



「...そうですよね」



蓮は寂しさを感じた。



これは演技。



練習。



本物じゃない。



「でも」



あかりが続けた。



「リハーサルだからこそ、本気でやらないといけないんです」



「本気...」



「本気でやらないと、本番で失敗しちゃいますから」



あかりは笑顔で言った。



でも、その笑顔はどこか寂しそうに見えた。



「そうですね。本気で、やりましょう」



蓮も笑顔を作る。



二人は歩き始めた。



でも、お互いの心の中では、同じことを考えていた。



これは本当に、ただのリハーサルなのか?



それとも──





夕方、駅前で二人は別れた。



「今日はありがとうございました」



「こちらこそ」



「蓮さん、すごく上手くなってましたよ」



「あかりさんのおかげです」



また明日、という約束をして別れる。



家に帰る電車の中、蓮は今日のことを思い返していた。



あかりの笑顔。



繋いだ手の温もり。



映画館での、あの距離感。



「これは...リハーサル」



自分に言い聞かせる。



でも、心はもう知っている。



これは、リハーサルなんかじゃない。



「俺、本気で...恋をしてる」



認めてしまった。



窓に映る自分の顔は、真っ赤になっていた。





あかりも、電車の中で同じことを考えていた。



「リハーサル...か」



自分で言った言葉。



でも、本当にそうなのか?



蓮の優しさ。



繋いだ手の大きさ。



映画館で触れ合った指先。



全てが、心に残っている。



「これ以上、深入りしちゃダメ」



自分に言い聞かせる。



蓮は俳優。自分は脚本家。



仕事の関係。



それ以上になってはいけない。



「でも...」



スマホに、蓮からメッセージが届いた。



『今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました』



あかりは思わず微笑んだ。



そして、返信する。



『私もです。また明日、頑張りましょう!』



送信ボタンを押す。



「また明日...」



会えることが、嬉しい。



これは、恋。



もう、否定できない。



「どうしよう...」



あかりは頬を両手で覆った。



脚本家として、たくさんの恋愛を書いてきた。



でも、自分の恋は、どう書けばいいのか分からない。



ハッピーエンドになるのか。



それとも──



「考えすぎ、だよね」



あかりは窓の外を見た。



夕焼けが、街を赤く染めている。



綺麗な景色。



でも、蓮と一緒に見たかったと思ってしまう。



「明日も...会える」



その事実だけで、心が温かくなった。