蓮とあかりが「今まで通りでいましょう」と笑い合ったその夜。
その笑顔とは裏腹に、胸の中に残ったざらりとした痛みは、両方の心に沈んだままだった。
そして翌日。
静かだったはずの稽古場に、見えない緊張が漂い始める。
── 稽古場・午前9時
佐藤演出家が台本片手に舞台中央へ歩きながら、声を響かせた。
「今日は第5場からいくぞー。桜井、椎名、位置入って!」
「はい!」
蓮と美咲が立ち位置につく。
その横であかりはノートパソコンを開き、修正箇所を確認していた。
(蓮さん……いつも通りに見えるけど……目が、少し曇ってる)
ほんのわずかな表情の変化に気づいてしまう自分が、ますます苦しくなる。
そこへ、ゆっくりと翔が入ってきた。
「おはよ、みんな。今日も美しい朝だねぇ」
「……高峰さん、おはようございます」
あかりが礼儀正しく頭を下げると、翔はにっこり笑う。
だが、その視線はすぐに蓮へ向かった。
(挑発……してる?)
蓮は明らかに意識していて、どこか落ち着かない様子だった。
そんな二人を見て、美咲が小さく眉を寄せる。
(……まただ。蓮、あかりさんのことになると分かりやすいなぁ)
美咲は胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
でもその痛みをごまかすように、にっこり笑った。
── 演技開始
佐藤が手を叩く。
「はいっ、じゃあ第5場。恋心を自覚したヒロインが、主人公に踏み込むシーンね。
桜井、美咲、感情寸前までいけよー」
「はい!」
美咲は深呼吸して蓮を見る。
台本上の二人は幼なじみ同士。
そして──本当の美咲と蓮も、幼なじみ。
その重なりが、美咲の演技にリアルさを与えていた。
「……ねえ、気づいてる?
あなたのこと、見てる人がいるって」
美咲の声は震えている。
演技なのに、本気の涙がにじんで見えた。
あかりはハッとする。
(これ……演技? それとも……)
蓮は息をのんだまま美咲を見る。
「見てる人って……誰だよ」
「……鈍いね。ほんと」
美咲が蓮に一歩近づいた、その瞬間。
「はい! ストップ!」
佐藤が急に声を上げた。
「美咲、いい表情だ。すごくいいよ」
美咲はほっとしたように微笑む。
でも、その視線の端で……
あかりが固まっているのを確かに見ていた。
(……ごめんね、あかりちゃん)
美咲は自嘲気味に笑う。
(好きなんだよ。昔からずっと。でも……蓮の目はあなたを見てる)
──休憩時間
稽古がひと段落し、座席の端に座っていたあかりの横に、翔がそっと近づいた。
「ねえ、水無月さん。ちょっといい?」
「え、あ……はい」
翔はいつもより真剣な目をしていた。
「……桜井さ、昨日あたりから変だ。心ここにないっていうか」
「あ……」
図星だった。
けれどそれを認めることができず、言葉に詰まる。
翔は続ける。
「俺さ……役者として一番嫌いなのが“嘘の演技”なんだ」
あかりは息をのむ。
「水無月さん。桜井に、何かあった?」
「わ、わたしは……」
翔の鋭い視線。
あかりは目をそらすことしかできなかった。
翔はため息をつき、少し柔らかな声で言った。
「……あのさ」
「?」
「役者ってね、恋をすると演技が変わるんだよ。
悪い意味でも、良い意味でも」
あかりの心臓が跳ねる。
「桜井……たぶん今、その境目にいる」
「境目……?」
「そう。
本気で誰かを好きになって──
プロとして壊れるか、
逆に伸びるか。どっちかだ」
まるで蓮の心を全部見透かしているような言葉だった。
あかりは唇をかみしめる。
(……蓮さんが壊れるなら、距離を置いたほうがいい……?
わたしのせいで、蓮さんが迷うくらいなら……)
翔は静かに言った。
「水無月さん。
“何もしない”っていう選択肢が一番残酷だよ」
胸がズキリと痛む。
翔は立ち上がりながら、ふっと笑った。
「まあ……それでもいいなら、俺がもらうけど」
「へっ……!?」
「冗談じゃないよ」
そう言って歩き出す翔の背中に、
あかりは言葉を失って座り込んでしまった。
── 舞台袖。
一方、蓮は壁にもたれながらひとり深呼吸していた。
(……昨日、あかりさんと“今まで通り”って言ったけど……
本当は、全然今まで通りじゃいられない)
距離を戻したのに、距離は縮まっていない──
そんな矛盾だけが胸を苦しめる。
「蓮」
振り返ると、美咲がいた。
「今日、どうしたの? らしくないよ」
「……わかる?」
「わかるよ。だって……ずっと見てきたもん」
美咲はゆっくり近づいて言った。
「好きな人が、違う誰かを見てるのって……つらいよね」
蓮の目が大きく見開かれる。
「え……」
美咲は笑ってみせるが、その笑顔は少し震えていた。
「気づいてないと思った?
……蓮の目が、誰を追ってるのかくらい、わかるよ」
蓮は言葉を失った。
美咲は声を落とす。
「でも──それでも、幼なじみとして言うね」
「……」
「そのままじゃダメだよ。
あかりさん、泣いちゃう」
蓮はハッとなった。
美咲は優しく微笑む。
「行ってあげなよ。
あなたが本当に守りたい人のところへ」
蓮の喉が詰まり、声が絞り出される。
「……美咲……」
「いいの。わかってるから」
美咲はそう言い残し、静かに背中を押した。
そして──
蓮があかりを探して走り出した瞬間。
舞台裏の空気が、確かに動き始めた。
翔。
美咲。
蓮。
あかり。
四人の想いが絡まり始める。
それはもう──
ただの“恋愛リサーチ”では終わらない。
その笑顔とは裏腹に、胸の中に残ったざらりとした痛みは、両方の心に沈んだままだった。
そして翌日。
静かだったはずの稽古場に、見えない緊張が漂い始める。
── 稽古場・午前9時
佐藤演出家が台本片手に舞台中央へ歩きながら、声を響かせた。
「今日は第5場からいくぞー。桜井、椎名、位置入って!」
「はい!」
蓮と美咲が立ち位置につく。
その横であかりはノートパソコンを開き、修正箇所を確認していた。
(蓮さん……いつも通りに見えるけど……目が、少し曇ってる)
ほんのわずかな表情の変化に気づいてしまう自分が、ますます苦しくなる。
そこへ、ゆっくりと翔が入ってきた。
「おはよ、みんな。今日も美しい朝だねぇ」
「……高峰さん、おはようございます」
あかりが礼儀正しく頭を下げると、翔はにっこり笑う。
だが、その視線はすぐに蓮へ向かった。
(挑発……してる?)
蓮は明らかに意識していて、どこか落ち着かない様子だった。
そんな二人を見て、美咲が小さく眉を寄せる。
(……まただ。蓮、あかりさんのことになると分かりやすいなぁ)
美咲は胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
でもその痛みをごまかすように、にっこり笑った。
── 演技開始
佐藤が手を叩く。
「はいっ、じゃあ第5場。恋心を自覚したヒロインが、主人公に踏み込むシーンね。
桜井、美咲、感情寸前までいけよー」
「はい!」
美咲は深呼吸して蓮を見る。
台本上の二人は幼なじみ同士。
そして──本当の美咲と蓮も、幼なじみ。
その重なりが、美咲の演技にリアルさを与えていた。
「……ねえ、気づいてる?
あなたのこと、見てる人がいるって」
美咲の声は震えている。
演技なのに、本気の涙がにじんで見えた。
あかりはハッとする。
(これ……演技? それとも……)
蓮は息をのんだまま美咲を見る。
「見てる人って……誰だよ」
「……鈍いね。ほんと」
美咲が蓮に一歩近づいた、その瞬間。
「はい! ストップ!」
佐藤が急に声を上げた。
「美咲、いい表情だ。すごくいいよ」
美咲はほっとしたように微笑む。
でも、その視線の端で……
あかりが固まっているのを確かに見ていた。
(……ごめんね、あかりちゃん)
美咲は自嘲気味に笑う。
(好きなんだよ。昔からずっと。でも……蓮の目はあなたを見てる)
──休憩時間
稽古がひと段落し、座席の端に座っていたあかりの横に、翔がそっと近づいた。
「ねえ、水無月さん。ちょっといい?」
「え、あ……はい」
翔はいつもより真剣な目をしていた。
「……桜井さ、昨日あたりから変だ。心ここにないっていうか」
「あ……」
図星だった。
けれどそれを認めることができず、言葉に詰まる。
翔は続ける。
「俺さ……役者として一番嫌いなのが“嘘の演技”なんだ」
あかりは息をのむ。
「水無月さん。桜井に、何かあった?」
「わ、わたしは……」
翔の鋭い視線。
あかりは目をそらすことしかできなかった。
翔はため息をつき、少し柔らかな声で言った。
「……あのさ」
「?」
「役者ってね、恋をすると演技が変わるんだよ。
悪い意味でも、良い意味でも」
あかりの心臓が跳ねる。
「桜井……たぶん今、その境目にいる」
「境目……?」
「そう。
本気で誰かを好きになって──
プロとして壊れるか、
逆に伸びるか。どっちかだ」
まるで蓮の心を全部見透かしているような言葉だった。
あかりは唇をかみしめる。
(……蓮さんが壊れるなら、距離を置いたほうがいい……?
わたしのせいで、蓮さんが迷うくらいなら……)
翔は静かに言った。
「水無月さん。
“何もしない”っていう選択肢が一番残酷だよ」
胸がズキリと痛む。
翔は立ち上がりながら、ふっと笑った。
「まあ……それでもいいなら、俺がもらうけど」
「へっ……!?」
「冗談じゃないよ」
そう言って歩き出す翔の背中に、
あかりは言葉を失って座り込んでしまった。
── 舞台袖。
一方、蓮は壁にもたれながらひとり深呼吸していた。
(……昨日、あかりさんと“今まで通り”って言ったけど……
本当は、全然今まで通りじゃいられない)
距離を戻したのに、距離は縮まっていない──
そんな矛盾だけが胸を苦しめる。
「蓮」
振り返ると、美咲がいた。
「今日、どうしたの? らしくないよ」
「……わかる?」
「わかるよ。だって……ずっと見てきたもん」
美咲はゆっくり近づいて言った。
「好きな人が、違う誰かを見てるのって……つらいよね」
蓮の目が大きく見開かれる。
「え……」
美咲は笑ってみせるが、その笑顔は少し震えていた。
「気づいてないと思った?
……蓮の目が、誰を追ってるのかくらい、わかるよ」
蓮は言葉を失った。
美咲は声を落とす。
「でも──それでも、幼なじみとして言うね」
「……」
「そのままじゃダメだよ。
あかりさん、泣いちゃう」
蓮はハッとなった。
美咲は優しく微笑む。
「行ってあげなよ。
あなたが本当に守りたい人のところへ」
蓮の喉が詰まり、声が絞り出される。
「……美咲……」
「いいの。わかってるから」
美咲はそう言い残し、静かに背中を押した。
そして──
蓮があかりを探して走り出した瞬間。
舞台裏の空気が、確かに動き始めた。
翔。
美咲。
蓮。
あかり。
四人の想いが絡まり始める。
それはもう──
ただの“恋愛リサーチ”では終わらない。



