稽古場の時計が午後九時を指したとき、

桜井蓮は脚本を閉じ、静かに息を吐いた。



「今日はここまでにしようか」

演出家・佐藤の声が響き、照明が少し落ちる。

俳優たちは三々五々《さんさんごご》に荷物をまとめて帰っていく。



けれど、蓮はその場に残ったまま、動けずにいた。



稽古の最後のシーン──

「好きだ」と言い切る台詞。

それを口にするたびに、胸の奥が痛んだ。

まるで、自分の中の“誰か”に言っているような錯覚に陥るからだ。



ペンの走る音が聞こえた。

ふと目を向けると、舞台袖の隅に、あかりが一人座っていた。

タブレットに向かって、真剣な眼差しで脚本の修正をしている。

その横顔を見ていると、どうしても視線を外せなかった。



──役者として、脚本家に恋をしてはいけない。

頭では分かっている。

でも、心はどうしても逆らってしまう。



「……桜井くん、まだいたんだ」



あかりが顔を上げ、微笑んだ。

少し疲れた笑顔。でも、どこかやさしかった。



「台詞、今日のあの“好きだ”のとこ……すごく良かった。

 でも、ちょっと苦しそうだったね」



「……分かりますか」



「うん。書いたの、私だからね」



その一言で、蓮の胸がざわついた。

彼女の言葉には、どこか自分へのメッセージのような響きがあった。



「水無月さん、この台詞……本当は、誰に向けて書いたんですか?」



あかりは手を止めた。

わずかに目を伏せ、ペン先で机をトントンと叩く。



「脚本家にそんなこと、聞いちゃダメだよ。

 “誰か”に向けて書いたって言ったら、物語が嘘になっちゃうから」



そう言いながら、あかりは立ち上がる。

けれど、去ろうとした足が一瞬だけ止まった。



「……でも、蓮くんがあの台詞を言うときだけ、少しだけ本音に聞こえるんだ。

 だから困るの。私まで、役に入りそうになる」



蓮は返す言葉を見つけられなかった。

ただ、静かに笑って、短く言った。



「じゃあ、せめて今はリハーサルってことで。

 本音は、もう少し先にとっておきます」



あかりの頬が、かすかに赤くなった。

けれどすぐに笑って、ごまかすようにバッグを肩にかけた。



「じゃあ、その“本音”がセリフになる日を楽しみにしてる」



そう言い残し、彼女は夜の街へと歩き出した。

蓮はその背中を見送りながら、胸の奥でつぶやく。



> 「恋と台本、どっちも嘘にできない。

 だったら、俺は“演じることで伝える”しかないんだ」







照明の落ちた稽古場に、一人残された蓮。

静かな空間の中で、彼の目だけが強く光っていた。



──そして、恋のリハーサルは、少しずつ“本番”に近づいていく。