翌日の午後。



蓮は約束の時間より三十分も早く劇場に着いてしまった。



「早く来すぎた...」



近くのコンビニでコーヒーを買い、劇場の前で待つ。



落ち着かない。



昨夜はほとんど眠れなかった。あかりとの稽古のことを考えると、胸が高鳴って仕方がない。



午後一時五十分。



約束の十分前。もういいだろう。



劇場に入ろうとした時──



「蓮さん!」



後ろから声がした。



振り返ると、あかりが小走りでやってくる。



「早かったですね」



「あ、いえ...その」



「私も早く来ちゃいました」



あかりは笑顔で言った。



「じゃあ、入りましょう」



二人は並んで劇場に入った。







稽古場には、二人きり。



台本を挟んで、向かい合って座る。



「まず、蓮さんの演技について」



あかりがノートを開く。



「はい」



蓮は緊張で背筋が伸びる。



「蓮さんの演技、真面目すぎるんです」



「真面目って...それ、褒めてます?」



「半分は」



あかりはクスッと笑った。



「でもね、この主人公・春樹は、もっと自然体でいいんです」



「自然体...」



「春樹は普通の大学生。恋をして、悩んで、笑って、泣いて。特別な人じゃないんです」



「でも、台詞はすごく詩的で美しくて...」



「それは春樹の内面です。外側は普通の二十二歳の男の子」



なるほど、と蓮は頷いた。



確かに、自分は台詞を「演じよう」としすぎていた。



もっと自然に、普通に。



「蓮さん、恋愛経験は?」



突然の質問に、蓮は動揺した。



「え!? な、なんでそんなこと...」



「春樹は初恋の相手に告白する物語ですから。参考までに」



「それは...その...」



顔が熱くなる。



正直に答えるべきか。でも、恥ずかしい。



「もしかして、ない?」



あかりが察した。



「...はい。演劇一筋で、そういうの全然...」



小声で認める。



二十三歳で恋愛経験ゼロ。役者として、人間として、情けない。



でも──



「それ、最高です!」



あかりの目が輝いた。



「え?」



「春樹も恋愛初心者なんです。だから蓮さん、役者として失格じゃなくて適任なんですよ!」



「そう...なんですか」



ほっとする。否定されなくて良かった。



「じゃあ、リサーチしましょう」



「リサーチ?」



「恋愛のリサーチです。私が全面協力します!」



あかりは立ち上がって、蓮の手を取った。



「え、ちょ、ちょっと...」



「明日から本格的に始めます。デートしたり、手を繋いだり」



「デ、デート!?」



「演技の練習ですよ、練習!」



あかりは笑顔で言う。



でも、蓮の心臓は早鐘を打っていた。



あかりと、デート。



それが演技の練習だとしても──



いや、だからこそ?



「よろしくお願いします、パートナー」



あかりが手を差し出す。



蓮は震える手で、その手を握った。



「よろしく...お願いします」



握手。



でも、なぜかすぐに離せない。



二人の手は、少し長めに繋がっていた。







その日の稽古は、台本の読み合わせから始まった。



「じゃあ、第一幕の最初から」



あかりが台本を開く。



「春樹のセリフ、言ってみてください」



「はい」



蓮は深呼吸して、セリフを読む。



「僕は君に会うために、この街に来たんだ」



「もっと軽く」



「僕は君に会うために、この街に来たんだ」



「そう!その調子です!」



あかりが拍手する。



「本当ですか?」



「はい。さっきより全然良くなってます」



嬉しい。



あかりに褒められると、自信が湧いてくる。



「次のセリフ」



「君の笑顔が見たくて、僕は毎日ここに来るんだ」



「感情を込めて。誰かの顔を思い浮かべてみてください」



誰かの顔。



蓮は目を閉じた。



そして、自然とあかりの顔が浮かんだ。



「君の笑顔が見たくて、僕は毎日ここに来るんだ」



目を開けると、あかりが微笑んでいた。



「完璧です」



「ありがとうございます」



「今の、誰の顔を思い浮かべました?」



「え?」



「春樹の相手役、美月のイメージです。参考までに」



「あ...その...」



言えるわけがない。



あかりの顔を思い浮かべていたなんて。



「秘密、ですか?」



あかりが少しだけ寂しそうに笑った。



「いえ...その...ごめんなさい」



「大丈夫です。俳優さんには秘密があるものですから」



そう言って、あかりは次のページを開いた。



蓮は心の中で、小さく謝った。



嘘をついてしまった。



でも、本当のことは言えない。



まだ、言えない。





稽古は三時間続いた。



あかりの指導は的確で、優しかった。



蓮の演技は、明らかに良くなっていく。



「今日はここまでにしましょう」



あかりが時計を見て言った。



「もう、こんな時間」



午後六時。外はすっかり暗くなっている。



「お疲れ様でした」



「こちらこそ。蓮さん、すごく良くなってます」



「あかりさんのおかげです」



「そんな。蓮さんの努力ですよ」



二人は稽古場を出た。



劇場の前で、立ち止まる。



「じゃあ、また明日」



「あかりさん」



蓮は勇気を振り絞って言った。



「今日、ありがとうございました。すごく楽しかったです」



「私もです」



あかりが微笑む。



「蓮さんと稽古するの、楽しい」



「本当ですか?」



「本当です」



その言葉に、蓮の胸が温かくなる。



「じゃあ...また明日」



「はい。また明日」



手を振り合って、別れる。



蓮は何度も振り返った。



あかりの姿が見えなくなるまで。







家に帰った蓮は、すぐにベッドに倒れ込んだ。



「楽しかった...」



天井を見つめながら、今日のことを思い返す。



あかりの笑顔。声。仕草。



全てが愛おしく思える。



「これって...」



スマホが鳴った。



メッセージ。あかりからだ。



『今日はありがとうございました!明日は午前十時に駅で待ち合わせですね!』



そうだ。明日は「恋愛リサーチ」の初日。



つまり、デート。



『了解です。楽しみにしてます』



返信を送る。



すぐに返事が来た。



『私もです!♡』



ハートマーク。



蓮は思わずスマホを抱きしめた。



「やばい...これ、完全に...」



認めたくなかった。



でも、もう隠せない。



「俺、あかりさんのこと...」



言葉にすることが怖い。



でも、心は正直だ。



「好きなのかもしれない」



初めての感情。



これが、恋。



蓮は顔を赤らめながら、明日のことを考えた。



どんな服を着ていこう。



何を話そう。



考えるだけで、胸がドキドキする。



「明日...楽しみだな」



蓮は幸せな気持ちで、眠りについた。







あかりも、同じように眠れない夜を過ごしていた。



ベッドに入っても、目が冴えている。



「明日...初めてのデート」



いや、デートじゃない。



あくまで演技の練習。恋愛リサーチ。



「そう、リサーチ」



でも、なぜこんなにワクワクするんだろう。



クローゼットを開けて、服を選び始める。



「何着て行こう...」



ワンピース?スカート?それともパンツ?



全部鏡の前で合わせてみる。



「可愛すぎるかな...いや、でも...」



気づくと、一時間も服選びをしていた。



「何やってるんだろう、私」



これはリサーチ。仕事。



なのに、こんなに準備してる。



「蓮さんに、可愛いって思われたい...」



本音が出た。



あかりは顔を両手で覆った。



「だめだめ、こんなの」



でも、止められない。



この気持ちは、もう止められない。



「私...蓮さんのこと...」



言葉にするのが怖い。



だって、まだ会って二日しか経ってない。



恋に落ちるには早すぎる。



「でも...心は正直」



あかりは鏡に映る自分を見つめた。



頬が赤く染まっている。



瞳が輝いている。



これは紛れもなく──



「恋...なのかな」



小さく呟いて、あかりは笑った。



脚本家として、たくさんの恋愛物語を書いてきた。



でも、自分が恋をするのは初めて。



「明日、頑張ろう」



あかりは最終的に、淡いブルーのワンピースを選んだ。



蓮さんに似合うって言われますように。



そんな願いを込めて、ベッドに入る。



でも、やはり眠れない。



明日が待ち遠しくて、待ち遠しくて仕方なかった。