稽古場の隅。照明が落とされ、蛍光灯の白い光だけが二人を照らしていた。
 蓮は台本を閉じ、深く息を吐く。あかりは向かいの机に座り、ノートパソコンの画面を睨みつけていた。

「……そんな顔、するなよ」
 蓮の声は静かだった。
「顔に出てた?」
「思いっきりな」
「脚本家としては、役者に見透かされるのは致命的ね」
 そう言って笑おうとしたが、唇の端は震えていた。

 恋愛リサーチのはずだった。
 役者と脚本家として、リアルな恋愛心理を描くための「実験」。
 そう言い聞かせながら、もう何度も会って、話して、笑って。
 ——でも、気づけば彼のことを本気で見てしまっている自分がいた。

「……蓮。これ以上は、もうやめよう」
「あかり?」
「このままだと、リサーチじゃなくなっちゃう」
 あかりはノートパソコンを閉じ、視線を落とした。
「脚本家が役者に恋して、物語が歪むのはダメ。プロ失格だもの」

 沈黙。
 蓮は立ち上がり、机の向こうからゆっくりと彼女に近づいた。
 距離が縮まるたびに、心臓が速くなる。

「だったら俺も失格だな」
「え?」
「役者として、脚本家を好きになったんだから」
 その言葉に、あかりは息を呑んだ。

「でも、これも"リアル"だろ?」
「……リアルすぎるのよ」
「脚本に書けないくらいのリアル。あかりが書くどんな恋より、本物のやつだ」

 彼の目は真っ直ぐで、嘘がなかった。
 あかりは視線を逸らした。涙が滲んでくる。

「私たちは、仕事仲間なの」
「わかってる」
「だったら、これ以上踏み込んじゃいけない」
「わかってるよ。でも——」

 蓮は一歩、踏み出した。
 その瞬間、机の脚がかすかに音を立てた。
 彼の声が低く、優しく響く。

「それでも、好きだから」

 あかりの胸が大きく鳴った。
 理性が「やめなさい」と叫ぶのに、心がそれを裏切っていく。

 照明の下、二人の影がゆっくりと重なった。
 けれど——その距離が完全に埋まる前に、あかりは小さく首を振った。

「ごめん……」
 それだけ言って、鞄を手に立ち上がる。
 そして、振り返らずに稽古場を出ていった。

 残された蓮は、台本を見つめた。
 彼女の書いた恋のセリフが、まるで自分たちの今をなぞるように並んでいる。

> 『恋は、予定通りに進まない。だからこそ、面白いの。』



 蓮は小さく笑い、呟いた。
「……だったら、俺たちの恋もまだ終わってないはずだ」