翌朝。
 あかりはいつものカフェにいた。
 ノートパソコンを開き、舞台の台本を見つめている。

 だが、画面のカーソルは、一向に動かない。
 頭の中が、昨夜の蓮の言葉でいっぱいだった。

> 「俺は、リサーチなんて思ってないよ」



 何度もリピート再生されるように、その声がよみがえる。
 胸の奥が熱くなるたび、あかりは慌ててマグカップのコーヒーを口に運んだ。

「……集中、集中。今は脚本家、水無月あかり」

 自分に言い聞かせる。
 けれど、画面に打ち込んだセリフが、どうしても“恋の匂い”を帯びてしまう。

> 『好きだ──でも、言えない。だって、演技の中の台詞だから。』



 書いては消し、また書く。
 気づけば、彼の顔を思い浮かべていた。

(ダメだ……これじゃ、私が恋してるのバレちゃう)

 溜息をついた瞬間、背後から声がした。

「やあ、朝から頑張ってるね」

「……高峰さん?」

 顔を上げると、そこには翔が立っていた。
 サングラスにキャップ姿、でも隠しきれないオーラ。

「偶然だな。俺もこのカフェ、よく来るんだ」

 翔は勝手に向かいの席に座り、軽くウィンクする。
「それ、次の舞台の脚本?」

「え、ええ……まあ」

「なるほど。恋愛モノだろ? なんとなく雰囲気でわかる」

 あかりは思わず動揺する。
 翔はテーブル越しに顔を寄せ、囁くように言った。

「君、恋してるね」

「えっ……な、何を……」

「俺、そういうの分かるんだ。恋をしてる女の顔って、いい意味で“演出できない”からさ」

 冗談めかして言うその声が、あかりの胸を刺す。
 本気か冗談か分からない微笑み。
 だが、その言葉には、奇妙な説得力があった。

「ま、誰かは聞かないよ。けどさ──本番までに整理しといたほうがいいぜ」

「整理……ですか?」

「感情をコントロールできない脚本家は、舞台を壊す。俺は何人も見てきた」

 翔は立ち上がり、軽く肩に手を置いた。
「才能あるんだから、恋に飲まれるなよ。……じゃあな」

 去っていく翔の背中を見つめながら、あかりは息を詰めた。

(恋に、飲まれる……)

 翔の言葉が胸の中で渦を巻く。
 彼は意地悪だけど、言っていることは正しい。
 このままでは、脚本も、心も、コントロールできなくなるかもしれない。

 あかりはノートパソコンを閉じ、そっと呟いた。

「……私、どうすればいいの?」




 一方その頃、劇場では。

 蓮が一人、舞台に立っていた。
 稽古の合間、誰もいない客席に向かってセリフを練習している。

> 「君を失ったら、俺はもう──」



 言葉が途切れた。
 セリフなのに、心が痛い。
 まるで、自分の気持ちそのものを告白しているようだった。

「……水無月さん」

 その名を口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
 彼女が、何を考えているのか分からない。
 でも、昨夜のあの瞳だけは忘れられなかった。

(もう逃げない。俺は──ちゃんと伝える)

 決意を込めて、もう一度セリフを口にする。

> 「君を失ったら、俺はもう、演じる意味がない──」



 その声は、舞台の天井へと真っすぐに響いていった。