新居は、まだ少しだけ他人行儀だった。
引っ越して一年。
段ボールはなくなり、家具も揃った。
それでも、完璧に“生活”になりきらない余白が、部屋のあちこちに残っている。
ダイニングテーブルの上には、二冊の台本。
並べて置かれているが、同じ作品ではない。
あかりは、マグカップを二つ持って戻ってきた。
「そっちは、どう?」
「……難しい」
蓮は正直に答える。
ソファに腰掛け、脚本に視線を落としたまま。
役者としての顔だが、どこか力が抜けている。
「でも、嫌いじゃない」
「それなら、よかった」
あかりは笑って、向かいに座る。
この一年で、二人は多くを“決めなかった”。
仕事の線引きも、生活のリズムも、
その都度話し合いながら、少しずつ調整してきた。
衝突がなかったわけじゃない。
だが、あの舞台の頃のように、
踏み込めずに立ち止まることは、もうない。
「ねえ」
あかりが、ふと思い出したように言う。
「舞台のとき、
私が書けなかった一行、覚えてる?」
蓮は顔を上げる。
「あれ、今なら書ける?」
少しだけ、考える。
あかりは、首を横に振った。
「たぶん、書かない」
蓮は驚かない。
「でも」
あかりは続ける。
「書かなくていいって、
ちゃんと分かった」
それは、諦めでも、逃げでもない。
書けなかったからこそ、
役者が立ち、
人生が動いた。
「……それでいいと思います」
蓮は、台本を閉じる。
立ち上がり、あかりの隣に腰を下ろす。
距離は近い。
けれど、必要以上に詰めない。
「愛してるよ、脚本家様」
からかうような口調。
でも、声は穏やかだ。
あかりは、少しだけ目を細める。
「私も、俳優様」
その言葉に、特別な意味を込めない。
肩書きでも、役割でもない。
ただ、
互いが選び続けている呼び名。
窓の外では、夕暮れが街を包んでいる。
明日も、仕事がある。
締切も、稽古も、打ち合わせも。
それでも。
この場所では、
仕事と生活が、同じ呼吸で並んでいる。
舞台でも、映画でもない。
拍手も、スポットライトもない。
けれど──
これは、確かに“本番”だ。
二人は、もう台詞を探さない。
沈黙を恐れない。
書かれなかった一行は、
これからも書かれないまま。
その余白ごと、
人生を続けていく。
引っ越して一年。
段ボールはなくなり、家具も揃った。
それでも、完璧に“生活”になりきらない余白が、部屋のあちこちに残っている。
ダイニングテーブルの上には、二冊の台本。
並べて置かれているが、同じ作品ではない。
あかりは、マグカップを二つ持って戻ってきた。
「そっちは、どう?」
「……難しい」
蓮は正直に答える。
ソファに腰掛け、脚本に視線を落としたまま。
役者としての顔だが、どこか力が抜けている。
「でも、嫌いじゃない」
「それなら、よかった」
あかりは笑って、向かいに座る。
この一年で、二人は多くを“決めなかった”。
仕事の線引きも、生活のリズムも、
その都度話し合いながら、少しずつ調整してきた。
衝突がなかったわけじゃない。
だが、あの舞台の頃のように、
踏み込めずに立ち止まることは、もうない。
「ねえ」
あかりが、ふと思い出したように言う。
「舞台のとき、
私が書けなかった一行、覚えてる?」
蓮は顔を上げる。
「あれ、今なら書ける?」
少しだけ、考える。
あかりは、首を横に振った。
「たぶん、書かない」
蓮は驚かない。
「でも」
あかりは続ける。
「書かなくていいって、
ちゃんと分かった」
それは、諦めでも、逃げでもない。
書けなかったからこそ、
役者が立ち、
人生が動いた。
「……それでいいと思います」
蓮は、台本を閉じる。
立ち上がり、あかりの隣に腰を下ろす。
距離は近い。
けれど、必要以上に詰めない。
「愛してるよ、脚本家様」
からかうような口調。
でも、声は穏やかだ。
あかりは、少しだけ目を細める。
「私も、俳優様」
その言葉に、特別な意味を込めない。
肩書きでも、役割でもない。
ただ、
互いが選び続けている呼び名。
窓の外では、夕暮れが街を包んでいる。
明日も、仕事がある。
締切も、稽古も、打ち合わせも。
それでも。
この場所では、
仕事と生活が、同じ呼吸で並んでいる。
舞台でも、映画でもない。
拍手も、スポットライトもない。
けれど──
これは、確かに“本番”だ。
二人は、もう台詞を探さない。
沈黙を恐れない。
書かれなかった一行は、
これからも書かれないまま。
その余白ごと、
人生を続けていく。



