締め切りまで、あと十二時間。

「うう...なんで私、いつもこうなんだろう」

水無月あかりは、下北沢のカフェの片隅で、ノートパソコンのキーボードを叩き続けていた。二十二歳。新人脚本家。去年、新人脚本賞を受賞して以来、仕事の依頼が殺到している。

嬉しい悲鳴、のはずだった。

「お客様...もう三時間以上お席を...」

店員の遠慮がちな声に、あかりは顔も上げずに答える。

「すみません!あと十分だけ!お願いします!」

コーヒーカップは三杯目。空になったカップが、彼女の焦りを物語っている。

画面に映る文字数は、目標の八割。ラストシーンが書けない。主人公の告白シーンが、どうしても納得いく形にならない。

「どうして...どうして書けないの」

恋愛を描くのは得意なはずだった。いや、得意だと思っていた。

でも、自分自身に恋愛経験がないことを、今更ながら痛感する。

想像だけで書いた恋。それは本物なのだろうか。

「...いや、考えてる暇はない」

指を動かす。言葉を紡ぐ。感情を込める。

そして──

「完成...!」

最後の一行を打ち込んだ瞬間、あかりは椅子に倒れ込んだ。疲労感が全身を襲う。でも、同時に達成感も湧き上がる。

「やった...間に合った...」

スマホを確認する。締め切りまで、あと三十分。

ギリギリセーフ。いつも通り。

メールに原稿を添付して送信。これで今夜は眠れる。

「お疲れ様でした、私」

あかりは小さく呟いて、カフェを後にした。


その頃、桜井蓮は人生最大のプレッシャーに押し潰されそうになっていた。

「主演...俺が?」

劇団「星屑座」の事務所。古びた雑居ビルの一室で、劇団代表の神崎が蓮を見つめている。

「そうだ。来週の新作公演、お前が主演だ」

「で、でも俺、まだ入団して三ヶ月ですよ!」

蓮は二十三歳。大学の演劇部出身。卒業後、小さな劇団に入ったばかりの新人俳優だ。

これまでの役は全て脇役。セリフが五つもあれば良い方。そんな自分が、いきなり主演。

「予定してた奴が急病でな。代役はお前しかいないんだ」

「他の先輩方は...」

「みんな別の仕事で埋まってる。お前しかいないんだ、桜井」

神崎の目は真剣だった。期待と、少しの不安が混じっている。

「...わかりました。精一杯、頑張ります」

蓮は震える声で答えた。

「初日まで二週間。台本は今日届く。しっかり読み込んでおけ」

「はい!」

事務所を出た蓮は、夕暮れの街を歩きながら、自分の手を見つめた。

震えている。

「大丈夫だ...今まで頑張ってきたんだから」

でも、本当に大丈夫なのだろうか。

主演の重圧。観客の視線。失敗したら──

「考えるな。今は、台本を読むことだけ考えよう」

蓮は自分に言い聞かせて、家路を急いだ。



その夜、蓮の部屋に台本が届いた。

差出人は「水無月あかり」。

「これが...俺の初主演作」

封筒を開ける手が震える。緊張なのか、期待なのか、自分でも分からない。

タイトルは「星降る夜の約束」。

表紙をめくり、第一場を読み始める。

そして──蓮は息を呑んだ。

「すごい...」

言葉の選び方。場面の転換。登場人物の心理描写。

全てが完璧だった。いや、完璧以上だ。

主人公・春樹は平凡な大学生。幼馴染の女の子に恋をして、告白できずに悩む。ありふれた設定。でも、この脚本の春樹は生きていた。

セリフの一つ一つに、感情が込められている。

春樹の不安、期待、喜び、悲しみ。全てが言葉から溢れ出てくる。

「天才だ...この脚本家、天才だ」

気づけば、時計は午後十一時を指していた。

一気に読み切ってしまった。

最後のシーンで、春樹は告白する。

そのセリフを読んだ時、蓮の目には涙が浮かんでいた。

「君といる時間が、僕の全てなんだ──」

美しい。切ない。そして、真っ直ぐ。

「こんな素晴らしい脚本を...俺に演じる資格があるのか?」

台本を閉じて、蓮は天井を見上げた。

不安が、また押し寄せてくる。

でも、同時に決意も固まる。

「絶対に...成功させる」

この作品を、最高の形で観客に届ける。

それが、脚本家への礼儀だ。

蓮はそう心に誓って、もう一度台本を開いた。


翌日の夜。

劇場「スターライトシアター」で、初日の顔合わせが行われた。

小さな劇場だが、下北沢では有名な場所だ。多くの名優が、ここから巣立っていった。

「じゃあ、自己紹介から。主演の桜井蓮」

神崎の声に、蓮は立ち上がった。

「桜井蓮です。大学の演劇部出身で...精一杯頑張ります!」

声が上ずっている。自分でも分かる。

他のキャストたちが、温かい拍手を送ってくれる。

そして──

「次は、今回の脚本を書いてくれた水無月あかり先生だ」

入口のドアが開いた。

現れたのは、カジュアルなワンピースを着た若い女性。

長い黒髪。大きな瞳。小柄な体。

蓮は目を見開いた。

「水無月あかり先生...?」

「先生って呼ばないでください!恥ずかしいので」

あかりはぺこりと頭を下げて、笑顔で言った。

「よろしくお願いします!」

「先生は弱冠二十二歳。去年、新人脚本賞を受賞された期待の新人だ」

神崎の紹介に、場がざわめく。

蓮は驚きを隠せなかった。

あの天才的な脚本を書いたのが、自分と同い年の女性。

しかも、こんなに...可愛らしい人。

「桜井さん、よろしくお願いします」

あかりが蓮に微笑みかける。

「あ、はい!こちらこそ!」

蓮は慌てて頭を下げた。

その時、不思議な感覚が蓮を襲った。

初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい。

まるで、昔から知っているような──

「桜井?どうした?」

神崎の声に、我に返る。

「すみません、何でもないです」

蓮は首を振って、顔合わせに集中した。

でも、視線はどうしても、あかりの方に向いてしまう。


顔合わせの後、初めての本読みが始まった。

「じゃあ、第一幕から。桜井、頼むぞ」

演出家の佐藤が言う。

「は、はい」

蓮は台本を開いた。

手が震えている。

深呼吸。落ち着け、自分。

そして、セリフを読み始める。

「僕は...君に会うために、この街に来たんだ」

声が震えていた。

「ストップ」

佐藤が手を上げる。

「桜井、緊張しすぎだ。もっとリラックスして」

「す、すみません」

もう一度。

「僕は君に会うために、この街に来たんだ」

やはり、硬い。

感情が乗らない。棒読みに聞こえる。

「...今日はここまでにしよう。桜井、もっと役を研究してこい」

佐藤のため息が、蓮の胸に突き刺さる。

「申し訳ございません...」

蓮は深く頭を下げた。

周りの視線が痛い。

失望しているのか、同情しているのか。

どちらにしても、辛い。

本読みが終わり、キャストたちが帰っていく。

蓮は一人、楽屋に残った。


楽屋の鏡の前で、蓮は何度もセリフを繰り返していた。

「僕は君に会うために...いや、違う」

立ち上がって、演技の練習。

でも、何度やっても上手くいかない。

力が入りすぎている。自然体になれない。

「くそっ...なんで上手くいかないんだ」

苛立ちが募る。

台本を机に叩きつけた。

その拍子に、台本が床に落ちる。

「あっ...」

拾おうとした瞬間──

ドアが開いた。

そして、別の手が台本に伸びる。

「大丈夫ですか?」

顔を上げると、そこにはあかりがいた。

「あ、ありがとうございます」

台本を受け取る。指が触れ合う。

「あの、もしかして桜井蓮さん?」

「はい...」

「やっぱり!さっき、練習してましたよね。見てました」

「見てたんですか...恥ずかしい」

蓮は顔を赤らめた。

下手な演技を見られていた。脚本家に。

「全然!真面目に練習してて素敵だなって思いました」

「でも...上手く演じられなくて。水無月さんの素晴らしい脚本を、台無しにしてしまう」

「そんなことないです!」

あかりは強く首を振った。

「蓮さんの演技、私は好きですよ」

「え?でも演出家さんには...」

「確かに硬いかもしれません。でも、それは真面目だから。丁寧に役と向き合ってるのが伝わります」

あかりの言葉に、蓮の胸が温かくなる。

「ありがとうございます」

「あの...あかりでいいですよ。同い年っぽいですし」

「じゃあ、俺のことも蓮で」

「蓮さん」

「あかりさん」

二人は笑顔で、もう一度挨拶を交わした。

初めて会ったのに、不思議と距離が近い。

まるで昔からの友達のような──

「あの、もしよければ」

あかりが言った。

「明日、一緒に稽古しませんか?」

「いいんですか?」

「もちろん!私が書いた言葉なので、どう演じてほしいか一番分かってるんです」

蓮の目が輝いた。

「お願いします!」

「じゃあ、明日の午後二時にここで」

「はい!」

楽屋を出る時、あかりが振り返った。

「蓮さん」

「はい?」

「この作品、私にとっても初めての舞台化なんです。一緒に良いものにしましょう」

「はい!絶対に成功させます!」

あかりは微笑んで、手を振った。

「じゃあ、また明日!」

「また明日!」

去っていくあかりの背中を、蓮は見つめていた。

不思議だ。

初めて会ったのに、胸が高鳴る。

これは一体──

「...いや、考えすぎだ」

蓮は首を振って、楽屋を後にした。

でも、心のどこかで気づいていた。

この出会いが、自分の人生を変えることを。



その夜、蓮は自分の部屋で台本を読んでいた。

ベッドに座り、主人公・春樹のセリフを何度も口にする。

「僕は君に会うために、この街に来たんだ」

今度は、さっきより少し自然に言えた気がする。

あかりとの会話を思い出す。

彼女の笑顔。優しい声。真剣な眼差し。

「あかりさんは、このセリフをどんな想いで書いたんだろう」

スマホにメモを取る。

明日、聞いてみよう。

窓の外を見ると、星空が広がっていた。

「明日...楽しみだな」

蓮は台本を抱いて、ベッドに横になった。

すぐに眠りにつくことはできなかった。

あかりの顔が、頭から離れない。

「俺、どうしちゃったんだろう」

でも、この感覚は悪くない。

むしろ、心地よい。

そう思いながら、蓮はゆっくりと瞼を閉じた。



同じ夜。

あかりも、自分の部屋で蓮のことを考えていた。

ベランダに出て、夜空を見上げる。

「蓮さん...真面目で、不器用で、でも一生懸命」

彼の演技を思い出す。

確かに硬い。でも、誠実さが伝わってくる。

「私の書いた物語を、大切に扱ってくれてる」

それだけで、嬉しかった。

部屋に戻り、デスクに座る。

新しいノートを開いて、何かを書き始める。

「恋愛リサーチ計画」

そう、タイトルをつけた。

「蓮さんは恋愛経験がない。なら、私が協力しよう」

あくまで仕事。役作りのため。

そう自分に言い聞かせる。

でも、心のどこかで気づいていた。

これは、単なる仕事以上の何かになるかもしれないと。

「頑張ろう、私」

あかりは微笑んで、ノートに計画を書き込んでいった。

明日から始まる、特別な時間のために。