夜の街は静かだった。
舞台稽古を終え、帰り道の途中で別れたあかりは、ひとりマンションのドアを開けた。

「……ただいま」

返事は、もちろんない。
だけど、その静けさに少しほっとする。
玄関に置かれたトートバッグの中には、稽古の台本。
そして、ノートパソコン。

あかりはそのまま机に向かい、パソコンの電源を入れた。
画面に浮かぶタイトルは──《恋のリハーサル》。

「……このタイトル、今の私たちそのままだよね」

苦笑がこぼれる。
恋愛リサーチのはずが、気づけば胸の鼓動まで演出できなくなっていた。
恋を教えるつもりが、自分がその“台詞”に溺れそうになっている。

キーボードを叩く。
けれど、すぐにバックスペースを押してしまう。

> カチ、カチ、カチ……。



「違う。こんなの、台本じゃない……」

頭の中には、さっきの蓮の顔が浮かんで離れなかった。
笑った顔。
不器用に言葉を選ぶ姿。
それを見ているだけで、心がざわめく。

あかりはそっとパソコンを閉じた。
そして引き出しから、小さなノートを取り出す。
革のカバーに包まれたそのノートは、彼女が脚本を書くときの“下書きメモ帳”だ。

ペンを手に取る。
しばらく迷ったあと、ページを開いた。

《第一印象:真面目。無口。でも、目が優しい。》

その一文を書いた瞬間、頬が緩む。
ペン先が、また動き出す。

《最近:笑うようになった。危なっかしいけど、まっすぐ。》

そこまで書いて、ペンが止まった。
息が詰まる。
そして、胸の奥から自然と浮かんできた言葉が──指先からこぼれた。

《……好き。》

その文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。
あかりは慌ててノートを閉じる。
でも、インクの滲みは止められない。
その一言が、胸の奥で静かに広がっていく。

「ダメだよ、水無月あかり……これは“恋愛リサーチ”なの。恋じゃない……」

そう言い聞かせるけれど、もう遅い。
恋は、シナリオみたいに書き換えられない。
予告なしで始まり、思い通りに進まない。

机の上にノートを置き、あかりはベッドに腰を下ろした。
天井を見上げながら、小さく呟く。

「ねぇ、蓮さん……あなたは今、どんな台詞を練習してるの?」

その問いの答えは、どこにも届かない。
ただ、胸の奥でペン先がまた揺れた。
恋という名の脚本が、ひとりでに書き始められていくように。