夜の稽古場。
照明は落ち、非常灯だけが、舞台の輪郭をぼんやり照らしている。
ほとんどの人は、もう帰った。
残っているのは、桜井蓮と、水無月あかり。
……正確には、残ってしまった、だ。
「……この修正、ここで合ってますか」
あかりは、台本を指差しながら言った。
声が、いつもより少し硬い。
「うん」
蓮は頷く。
「ヒロインが、逃げる前の一拍」
「今日の芝居で、すごく効いてた」
「……ありがとうございます」
それだけで、会話が途切れる。
(これだ)
蓮は、思った。
この距離。
ずっと、ここにいた。
近いのに、踏み込まない。
(待つって)
(こういうことだったんだな)
安全で、優しくて。
でも。
「水無月さん」
蓮が、名前で呼ぶ。
あかりが、顔を上げる。
「……はい」
蓮は、一歩だけ、距離を詰めた。
触れない。
でも、逃げ道を残さない距離。
「俺」
一瞬、言葉を探す。
(言ったら、戻れない)
翔の顔が、よぎる。
“譲らない”と宣言した背中。
(……逃げるな)
「……待たない」
低い声だった。
「もう、“待つ役”はやめる」
あかりの瞳が、揺れる。
「それは……」
「奪うとか」
「迫るとか」
「そういう意味じゃない」
蓮は、はっきり言う。
「でも」
一拍。
「何も言わずに、譲るのはしない」
沈黙。
空気が、張り詰める。
「俺は」
蓮は、視線を逸らさない。
「あなたを」
言い切る。
「脚本家じゃなくて、一人の女性として見てる」
あかりの呼吸が、乱れる。
(……言われた)
一番、言われたくて。
一番、怖かった言葉。
「だから」
蓮は、少しだけ苦く笑う。
「選べって、言わない」
「でも」
声が、真剣になる。
「俺は、ここにいる」
「逃げない」
「待たない」
「自分の気持ちから」
あかりは、何も言えない。
言えば、壊れる。
言わなければ、続く。
どちらも、怖い。
「……今は」
あかりが、やっと声を出す。
「答え、出せません」
「わかってる」
蓮は、即答した。
「それでいい」
「でも」
一歩、引く。
「知らないふりは、もうしない」
その距離の引き方が。
優しくて。
残酷だった。
「今日は」
蓮は、台本を閉じる。
「ここまでにしよう」
「……はい」
二人は、並んで稽古場を出る。
廊下の灯りが、二人の影を、長く伸ばす。
別れ際。
蓮が、振り返った。
「水無月さん」
「……はい」
「これだけは、言わせて」
一拍。
「選ばれなくても、後悔しない」
「……でも」
微笑む。
「選ばれたら」
「全力で、受け止める」
その言葉を残して、蓮は歩き出した。
あかりは、その場に立ち尽くす。
胸が、痛いほど鳴っている。
(待たないって……)
(こういうことなんだ)
同じ夜。
遠くで、翔がそれを知ることになる。
静かな衝突は、もうすぐだ。
照明は落ち、非常灯だけが、舞台の輪郭をぼんやり照らしている。
ほとんどの人は、もう帰った。
残っているのは、桜井蓮と、水無月あかり。
……正確には、残ってしまった、だ。
「……この修正、ここで合ってますか」
あかりは、台本を指差しながら言った。
声が、いつもより少し硬い。
「うん」
蓮は頷く。
「ヒロインが、逃げる前の一拍」
「今日の芝居で、すごく効いてた」
「……ありがとうございます」
それだけで、会話が途切れる。
(これだ)
蓮は、思った。
この距離。
ずっと、ここにいた。
近いのに、踏み込まない。
(待つって)
(こういうことだったんだな)
安全で、優しくて。
でも。
「水無月さん」
蓮が、名前で呼ぶ。
あかりが、顔を上げる。
「……はい」
蓮は、一歩だけ、距離を詰めた。
触れない。
でも、逃げ道を残さない距離。
「俺」
一瞬、言葉を探す。
(言ったら、戻れない)
翔の顔が、よぎる。
“譲らない”と宣言した背中。
(……逃げるな)
「……待たない」
低い声だった。
「もう、“待つ役”はやめる」
あかりの瞳が、揺れる。
「それは……」
「奪うとか」
「迫るとか」
「そういう意味じゃない」
蓮は、はっきり言う。
「でも」
一拍。
「何も言わずに、譲るのはしない」
沈黙。
空気が、張り詰める。
「俺は」
蓮は、視線を逸らさない。
「あなたを」
言い切る。
「脚本家じゃなくて、一人の女性として見てる」
あかりの呼吸が、乱れる。
(……言われた)
一番、言われたくて。
一番、怖かった言葉。
「だから」
蓮は、少しだけ苦く笑う。
「選べって、言わない」
「でも」
声が、真剣になる。
「俺は、ここにいる」
「逃げない」
「待たない」
「自分の気持ちから」
あかりは、何も言えない。
言えば、壊れる。
言わなければ、続く。
どちらも、怖い。
「……今は」
あかりが、やっと声を出す。
「答え、出せません」
「わかってる」
蓮は、即答した。
「それでいい」
「でも」
一歩、引く。
「知らないふりは、もうしない」
その距離の引き方が。
優しくて。
残酷だった。
「今日は」
蓮は、台本を閉じる。
「ここまでにしよう」
「……はい」
二人は、並んで稽古場を出る。
廊下の灯りが、二人の影を、長く伸ばす。
別れ際。
蓮が、振り返った。
「水無月さん」
「……はい」
「これだけは、言わせて」
一拍。
「選ばれなくても、後悔しない」
「……でも」
微笑む。
「選ばれたら」
「全力で、受け止める」
その言葉を残して、蓮は歩き出した。
あかりは、その場に立ち尽くす。
胸が、痛いほど鳴っている。
(待たないって……)
(こういうことなんだ)
同じ夜。
遠くで、翔がそれを知ることになる。
静かな衝突は、もうすぐだ。



