夜の稽古場。
片付けの音が、少しずつ遠ざかっていく。
最後まで残っていたのは、高峰翔だった。
鏡の前で、ネクタイを外し、シャツの袖をまくる。
(……佐藤さん、えげつない)
昼の言葉が、まだ胸に残っている。
──私情を抱えたまま、やろう。
それを「利用する」と言い切れるのは、演出家だけだ。
翔は、スマホを取り出す。
画面には、水無月あかりの名前。
(選ばせに行くって、言ったよな)
言葉だけなら、簡単だ。
感情をぶつけて、迫って、答えを求める。
でも。
(それは……素人でもできる)
翔は、息を吐く。
(俺は、役者だ)
(プロだ)
だからこそ、選ぶ。
感情より、方法を。
翔は、ゆっくりと稽古場を出た。
翌日。
午前中の読み合わせ。
台本が配られ、全員が席に着く。
あかりは、どこか落ち着かない。
昨日の佐藤の言葉が、まだ頭から離れない。
「じゃ、今日はここから」
佐藤の合図で、読みが始まる。
ヒロインと相手役が向き合う、静かな場面。
蓮が、声を出す。
丁寧で、抑制された芝居。
感情を、ぎりぎりまで内側に留めている。
(……逃げてない)
あかりは、そう感じる。
次。
翔の番。
翔は、一拍、置いた。
そして──
何も足さなかった。
過剰な感情も。
挑発的な視線も。
甘い声色も。
台本通り。
淡々と。
正確に。
それなのに。
空気が、変わった。
亜理沙が、思わず息を止める。
(……え)
あかりの指が、止まる。
(静か、なのに……)
翔の芝居は、「余白」だった。
語らない。
迫らない。
選ばせない。
ただ、そこに在る。
ヒロインが、選ばなければならない存在として。
佐藤が、片眉を上げる。
(……なるほど)
読みが終わる。
一瞬の沈黙。
「……高峰」
佐藤が言う。
「今日のそれ、どういう意図?」
翔は、椅子に座ったまま答えた。
「譲らないためです」
即答だった。
空気が、ざわつく。
「感情で迫ると」
翔は続ける。
「相手は、防御に入る」
「それじゃ、選択にならない」
あかりの胸が、締めつけられる。
(……見透かされてる)
「だから」
翔は、静かに言った。
「俺は、役として完璧に立つ」
「ヒロインが、どちらを選んでも」
「後悔しないように」
蓮が、初めて口を開く。
「……それは」
声が、低い。
「逃げじゃないのか?」
翔は、蓮を見る。
真っ直ぐ。
「違う」
「逃げるなら」
「楽な感情論に行く」
一拍。
「俺は」
「舞台の上で、選ばれるかどうかを、受け止める」
沈黙。
佐藤が、ゆっくりと頷いた。
「……プロだね」
「残酷なやり方だけど」
あかりは、俯く。
(逃げ場が、ない)
感情で迫られれば、拒めたかもしれない。
でも。
作品として、完璧に提示される“選択肢”は、
否定できない。
翔は、最後に言った。
「だから、俺は譲らない」
「感情をぶつけることで、勝とうとしない」
「役者として」
「全力で、選ばれにいく」
その言葉は。
蓮にも。
あかりにも。
深く、突き刺さった。
稽古場に、静かな緊張が戻る。
誰も、すぐには動けなかった。
“待たない”と口にした蓮。
“譲らない”と決めた翔。
そして、選ばなければならないあかり。
物語は、
もう後戻りできない地点に来ていた。
片付けの音が、少しずつ遠ざかっていく。
最後まで残っていたのは、高峰翔だった。
鏡の前で、ネクタイを外し、シャツの袖をまくる。
(……佐藤さん、えげつない)
昼の言葉が、まだ胸に残っている。
──私情を抱えたまま、やろう。
それを「利用する」と言い切れるのは、演出家だけだ。
翔は、スマホを取り出す。
画面には、水無月あかりの名前。
(選ばせに行くって、言ったよな)
言葉だけなら、簡単だ。
感情をぶつけて、迫って、答えを求める。
でも。
(それは……素人でもできる)
翔は、息を吐く。
(俺は、役者だ)
(プロだ)
だからこそ、選ぶ。
感情より、方法を。
翔は、ゆっくりと稽古場を出た。
翌日。
午前中の読み合わせ。
台本が配られ、全員が席に着く。
あかりは、どこか落ち着かない。
昨日の佐藤の言葉が、まだ頭から離れない。
「じゃ、今日はここから」
佐藤の合図で、読みが始まる。
ヒロインと相手役が向き合う、静かな場面。
蓮が、声を出す。
丁寧で、抑制された芝居。
感情を、ぎりぎりまで内側に留めている。
(……逃げてない)
あかりは、そう感じる。
次。
翔の番。
翔は、一拍、置いた。
そして──
何も足さなかった。
過剰な感情も。
挑発的な視線も。
甘い声色も。
台本通り。
淡々と。
正確に。
それなのに。
空気が、変わった。
亜理沙が、思わず息を止める。
(……え)
あかりの指が、止まる。
(静か、なのに……)
翔の芝居は、「余白」だった。
語らない。
迫らない。
選ばせない。
ただ、そこに在る。
ヒロインが、選ばなければならない存在として。
佐藤が、片眉を上げる。
(……なるほど)
読みが終わる。
一瞬の沈黙。
「……高峰」
佐藤が言う。
「今日のそれ、どういう意図?」
翔は、椅子に座ったまま答えた。
「譲らないためです」
即答だった。
空気が、ざわつく。
「感情で迫ると」
翔は続ける。
「相手は、防御に入る」
「それじゃ、選択にならない」
あかりの胸が、締めつけられる。
(……見透かされてる)
「だから」
翔は、静かに言った。
「俺は、役として完璧に立つ」
「ヒロインが、どちらを選んでも」
「後悔しないように」
蓮が、初めて口を開く。
「……それは」
声が、低い。
「逃げじゃないのか?」
翔は、蓮を見る。
真っ直ぐ。
「違う」
「逃げるなら」
「楽な感情論に行く」
一拍。
「俺は」
「舞台の上で、選ばれるかどうかを、受け止める」
沈黙。
佐藤が、ゆっくりと頷いた。
「……プロだね」
「残酷なやり方だけど」
あかりは、俯く。
(逃げ場が、ない)
感情で迫られれば、拒めたかもしれない。
でも。
作品として、完璧に提示される“選択肢”は、
否定できない。
翔は、最後に言った。
「だから、俺は譲らない」
「感情をぶつけることで、勝とうとしない」
「役者として」
「全力で、選ばれにいく」
その言葉は。
蓮にも。
あかりにも。
深く、突き刺さった。
稽古場に、静かな緊張が戻る。
誰も、すぐには動けなかった。
“待たない”と口にした蓮。
“譲らない”と決めた翔。
そして、選ばなければならないあかり。
物語は、
もう後戻りできない地点に来ていた。



