リハーサルの合間。

 舞台袖で、あかりは台本を抱えたまま、静かに息を吐いた。

 ステージの中央では、蓮と美咲が新しいシーンの稽古をしている。

 向かい合う二人の表情が、演技を超えて見えた。

 まるで本物の恋人みたいに。



 「……いい感じだな」

 演出家の佐藤が満足げに頷く。

 「桜井、椎名。今の感情の流れ、すごく自然だった。

 そのまま次の動きに入ってみよう」

 「はい!」

 蓮の返事は張りのある声だった。

 けれど、その目の奥には微かな迷いがあった。



 ──見られている。

 稽古中も、あかりの視線を感じる。

 けれど、彼女の顔を見ることができなかった。



 稽古が終わったあと、蓮は水を一口飲んで深く息をついた。

 そこへ、美咲がタオルを手渡す。

 「はい、汗すごいよ。がんばってるね、蓮」

 「ありがとう、美咲」

 自然と交わされる笑顔。

 その光景を、遠くからあかりが見つめていた。



 胸の奥に、重たいものが沈んでいく。

 “これは仕事。脚本家として見守るだけ。”

 何度そう言い聞かせても、心は言うことを聞いてくれない。

 ──私、こんな気持ちになるために、舞台を作ってるんじゃないのに。



 その夜。

 あかりはいつものように、ノートパソコンの前に座っていた。

 けれど、台詞が浮かばない。

 画面の前で指を止めたまま、思考が空回りする。



 「……“好きです”の一言が、こんなに書けないなんて」

 恋を題材にしてきた自分が、まるで初心者みたいだった。

 蓮の笑顔を思い出す。

 舞台の上で美咲に向ける、あの優しい目。

 それを、私の方に向けてほしいなんて──

 そんなこと、望んじゃいけない。



 パソコンの画面が滲む。

 涙をぬぐおうとした瞬間、スマホが震えた。

 メッセージの送信者は、蓮。



 『明日の稽古、少し早めに行きます。修正箇所、直接話せますか?』



 指が止まる。

 “直接話せますか”──

 それは、単なる仕事の連絡。

 でも、胸が少しだけ高鳴る。

 『はい。私も早めに行きますね』

 送信ボタンを押したあと、ほんの少しだけ、涙が乾いた。



 翌朝。

 劇場のロビー。

 まだ誰もいない時間、あかりが脚本を抱えて入ってくると──

 そこには、すでに蓮がいた。

 「おはようございます」

 「……おはようございます」

 二人の声が、かすかに重なる。



 しばしの沈黙。

 あかりが目を伏せたまま言う。

 「昨日の稽古、よかったですよ。感情の流れが自然で」

 「ありがとうございます」

 蓮はぎこちなく笑った。

 言いたいことが喉の奥に詰まる。

 本当は、「あのときの美咲に感情を重ねたのは、あかりさんを思ってたから」──そう言いたかった。

 けれど、言えない。



 「あの……桜井さん」

 あかりが少しだけ顔を上げる。

 「はい?」

 「台本、少し書き直したんです。ラストの“抱きしめるシーン”を、もう少し繊細にしたくて」

 「……繊細に?」

 「ええ。感情がぶつかるよりも、“届かない想い”を描きたいんです」

 “届かない想い”──

 それは、まるで今の自分たちのことを言っているようだった。



 二人は目を合わせる。

 でも、どちらも笑えなかった。

 その距離は、たった一歩。

 けれど、その一歩が踏み出せない。



 静かな空気が、ふたりの間を満たす。

 そして、あかりが小さく息を吸った。

 「……明日も、がんばりましょう」

 「はい」

 ほんの短い会話。

 でも、心の奥に痛みだけが残った。



 稽古場のドアが開き、美咲が明るい声で入ってくる。

 「おはよう! あれ、もう二人とも来てたんだ」

 その声で、張りつめた空気が一瞬で壊れた。

 蓮が笑顔を作り、あかりも慌てて脚本を閉じた。



 ──誰も、何も言わなかった。

 けれど、その沈黙の中にこそ、三人の“本当の気持ち”が隠れていた。