恋のリハーサルは本番です

廊下は、稽古場の喧騒から切り離されたように静かだった。



自販機の低い駆動音と、遠くで誰かが台詞を読む声だけが、微かに響いている。



水無月あかりは、壁に手をついて立っていた。



呼吸が浅い。



胸が、まだ追いついていない。



(なんで……)

(どうして、こうなるの)



脚本家として来ているはずの場所で。



仕事をするために来ているはずの場所で。



「……私、何してるんだろ」



声に出した瞬間、少しだけ涙が滲んだ。



「……何も、悪いことはしてない」



自分に言い聞かせる。



恋をしたわけじゃない、と言い切れなくなっただけ。



立場を壊していないだけ。



越えていないだけ。



──“だけ”。



「それが、いちばん残酷なんだよな」



背後から、声。



あかりは、はっと振り向く。



「……桜井さん」



そこにいたのは、蓮だった。



息が、詰まる。



昨日の夜。



今朝の稽古場。



亜理沙の爆弾。



翔の宣言。



全部が、一気に押し寄せる。



「……ごめんなさい」



反射的に、あかりは言った。



「私、今……」



「謝らないでください」



蓮の声は、思ったより落ち着いていた。



けれど、その目は、逃げていなかった。



「……俺が、言うことなので」



あかりの指先が、震える。



「桜井さん」



「昨日のことなら──」



「昨日のことです」



蓮は、はっきり言った。



「昨日、俺は“待つ”って言いました」



「越えないって、決めてました」



あかりは、俯く。



(それが……どれだけ救いでもあり、どれだけ苦しかったか)



「でも」



蓮は、一歩だけ近づいた。



近づきすぎない距離。



それでも、逃げ場のない距離。



「今朝」



「水無月さんが、ああやって立ち尽くしてるのを見て」



「……初めて思いました」



喉が、鳴る。



「“待つ”って」



「相手に全部背負わせることなんじゃないか、って」



あかりは、顔を上げる。



目が合う。



逃げない目。



「俺は、あなたに選ばせる立場じゃない」



「脚本家だから、とか」



「立場が違うから、とか」



「全部、分かってるつもりで」



「……分かってなかった」



蓮の声が、少しだけ揺れた。



「水無月さんが、誰にも寄りかかれなくなってるのに」



「俺だけ、安全な場所で“待ってる”のは」



「……違う」



沈黙。



廊下の空気が、張り詰める。



「だから」



蓮は、深く息を吸った。



そして──

言った。



「俺は、もう」



一瞬、躊躇って。



でも、逃げなかった。



「……待たない」



言い切った瞬間。



胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。



あかりの心臓が、強く打つ。



「……それって」



声が、掠れる。



「それって、どういう……」



蓮は、少しだけ苦く笑った。



「まだ、答えをくださいって言う資格はないです」



「でも」



視線を逸らさず、続ける。



「水無月さんが、迷ってるなら」



「俺は、その横に立つ」



「“待つ”じゃなくて」



「一緒に、迷います」



あかりの目に、涙が溜まる。



(……ずるい)



(そんな言い方)



(脚本に、書けない)



「……桜井さん」



名前を呼んだ、その瞬間。



初めて。



脚本家ではなく。



舞台関係者でもなく。



一人の女性として、彼を見ている自分に気づいた。



「……それ」



小さく、笑ってしまう。



「一番、逃げ場ない言い方ですよ」



蓮も、少しだけ笑った。



「……そうですね」



でも、後悔はしていなかった。



廊下の向こうで、誰かが呼ぶ声がする。



「そろそろ、戻らないと」



蓮が言う。



あかりは、頷いた。



「……はい」



二人は、並んで歩き出す。



まだ、答えは出ていない。



でも。



“待つ役”と“踏み出す役”の境界線は、

確実に、消え始めていた。