恋のリハーサルは本番です

稽古場は、夕方の光に染まり始めていた。

通し稽古が終わり、役者たちがそれぞれストレッチや片付けに入る中、
空気だけが、妙に張りつめたままだった。

その中心にいるのは、三人。

桜井蓮。
水無月あかり。
そして──高峰翔。

翔は、壁に寄りかかりながら、二人の距離を測るように眺めていた。

(……ほんと、面倒くさい二人だ)


目は合うのに、踏み出さない。

言葉はあるのに、届かせない。

その“間”を、翔はもう見過ごす気がなかった。

「なあ、桜井」

唐突に、翔が口を開いた。

蓮は、びくりと肩を揺らす。

「さっきの続き」

「……何の話だ」

「“待つ”とか“越えない”とかのやつ」

蓮は黙る。

その沈黙自体が、答えだった。

翔は小さく息を吐き、今度はあかりの方を見た。

「水無月さん」

「……はい?」

不意に名を呼ばれて、あかりはノートパソコンを抱え直す。

「ひとつ、確認していい?」

翔の声は、いつになく真剣だった。

「俺が、役者としてじゃなくて」

「一人の男として、あんたを好きだって言ったら」

「それ、反則?」

空気が、凍る。

蓮が、息を呑む音が聞こえた。

あかりは、言葉を失う。

「……翔、ここ稽古場だぞ」

蓮の声は、わずかに震えていた。

「知ってる」

翔は視線を逸らさない。

「でもさ」

「ここが一番、嘘つけない場所だろ?」

あかりの指が、パソコンの端を強く握る。

「翔さん……」

「まだ答えなくていい」

翔は、あっさりと言った。

「ただ、宣言しとく」

そして、蓮を見る。

まっすぐに。

挑発でもなく、皮肉でもなく。

「桜井が“待つ”なら」

「じゃあ俺は、行く」

その一言は、静かだった。

けれど、確実に空気を切り裂いた。

「逃げ道も、言い訳も、立場も」

「全部承知で」

「水無月さんを、選びに行く」

蓮の胸が、大きく跳ねる。

(……言った)

(こいつ……本当に……)

「翔、それは──」

「フェアだろ?」

翔は被せるように言った。

「誰かが動かない限り、何も始まらない」

「それに」

一瞬だけ、笑う。

「俺は、誰かの“覚悟待ち”するほど、余裕ないんで」

あかりは、完全に固まっていた。

心臓が、うるさいほど鳴る。

(……なんで)

(こんなに、真っ直ぐで)

(こんなに、逃げ場がないの)

「……翔さん」

やっと出た声は、かすれていた。

「私は……」

「うん」

翔は、優しく遮る。

「それも含めて、選ばせて」

沈黙。

稽古場のざわめきが、遠くに感じられる。

蓮は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。

(俺は……)

(何を、してる)

“待つ”と決めた。

越えないと決めた。

でも今。

誰かが、全部背負って踏み出した。

「……くそ」

蓮は、小さく呟く。

翔は、それを聞き逃さなかった。

「なに?」

「……いや」

蓮は、拳を握る。

心臓が、うるさすぎる。

(俺が動かなかったせいで)

(選ぶ覚悟を、彼女一人に背負わせてる)

その事実が、胸を締めつけた。

翔は最後に、あかりへもう一度だけ言った。

「今日じゃなくていい」
「でも、俺は引かない」
「それだけは、はっきりさせとく」

そう言って、稽古場を出ていく。

残された二人。

あかりは、視線を落としたまま、動けない。

蓮は──
初めて、はっきり思った。

(……待つって)
(こんなにも、残酷だ)

この瞬間。

蓮の中で、
“待つ役”は、確実に終わりに近づいていた。