稽古場の片隅。
発声練習の声が響く中で、
桜井蓮だけが、台本を手に持ったまま動けずにいた。
(……集中しろ)
何度も自分に言い聞かせる。
次のシーンは、恋人役の二人が向き合う重要な場面。 集中しなければ、舞台は崩れる。
わかっているのに。
視界の端に、水無月あかりが入るたび、呼吸が乱れる。
ノートパソコンを開いて、何度も閉じて。 メモを書いては、消して。 立ち位置を確認しているふりをしながら、こちらを見ない。
(……避けられてる)
そう感じた瞬間、胸の奥がひりついた。
自分で選んだ距離のはずなのに。
「……桜井」
声をかけられて、顔を上げる。
高峰翔だった。 腕を組み、いつもの余裕を半分だけ外した表情。
「顔、死んでる」
「……放っといてくれ」
「無理だな」
翔は小さく笑い、視線をあかりの方へ向けた。
「さっきから、水無月さんの一挙手一投足で感情振り回されてる」
図星すぎて、言い返せない。
「……俺は」
蓮は、低く呟いた。
「邪魔するつもりは、なかった」
「だから“待つ”って決めた」
翔は、静かに言う。
「それ、本当に優しさ?」
その一言が、胸に刺さる。
「彼女は脚本家だ。俺は俳優だ」
「立場を壊したくなかった」
「……それで?」
翔が一歩近づく。
「彼女の心が壊れそうでも?」
蓮の喉が、詰まる。
「今の水無月さん」
「誰にも寄りかかれない場所で、一人で踏ん張ってる」
「それ、見えてないわけじゃないだろ」
見えている。
だから、苦しい。
「……だから、俺は」
蓮は、拳を握りしめた。
「だから……待つって……」
その瞬間。
稽古場の向こうで、亜理沙の声が弾けた。
「水無月さーん!
この台詞、感情どう乗せます?」
あかりが少し驚いた顔で振り向く。
「あ、えっと……」
迷い。 戸惑い。 でも、誰にも助けを求めない目。
その横顔を見た瞬間。
蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。
(……俺は)
(“待つ”って言葉の後ろに)
(逃げてただけじゃないのか)
蓮は、無意識に一歩踏み出していた。
「あかりさん」
名前を呼びかけて──
止まる。
言えば、越える。
言えば、戻れない。
喉の奥まで出かかった言葉。
「俺は、もう──」
その先を、飲み込んだ。
あかりが、こちらを見る。
ほんの一瞬。 視線が絡む。
何かを期待して。 何かを恐れて。
「……なんでもない」
蓮は、そう言って目を逸らした。
逃げた。
自覚してしまったからこそ、余計に苦しい。
翔は、その背中を見て、静かに言う。
「……今の、惜しかったな」
「……うるさい」
「でも」
翔は、はっきり言った。
「“待たない”って言葉が出かけたってことは」
「もう、時間の問題だ」
蓮は、答えない。
でも、心臓は正直だった。
ドクドクと、
“待つ役”ではいられない鼓動を刻んでいる。
その夜。
蓮は、初めてはっきりと思った。
(次に名前を呼ぶときは)
(……逃げない)
“待たない”という選択が、
もう、すぐそこまで来ていた。
発声練習の声が響く中で、
桜井蓮だけが、台本を手に持ったまま動けずにいた。
(……集中しろ)
何度も自分に言い聞かせる。
次のシーンは、恋人役の二人が向き合う重要な場面。 集中しなければ、舞台は崩れる。
わかっているのに。
視界の端に、水無月あかりが入るたび、呼吸が乱れる。
ノートパソコンを開いて、何度も閉じて。 メモを書いては、消して。 立ち位置を確認しているふりをしながら、こちらを見ない。
(……避けられてる)
そう感じた瞬間、胸の奥がひりついた。
自分で選んだ距離のはずなのに。
「……桜井」
声をかけられて、顔を上げる。
高峰翔だった。 腕を組み、いつもの余裕を半分だけ外した表情。
「顔、死んでる」
「……放っといてくれ」
「無理だな」
翔は小さく笑い、視線をあかりの方へ向けた。
「さっきから、水無月さんの一挙手一投足で感情振り回されてる」
図星すぎて、言い返せない。
「……俺は」
蓮は、低く呟いた。
「邪魔するつもりは、なかった」
「だから“待つ”って決めた」
翔は、静かに言う。
「それ、本当に優しさ?」
その一言が、胸に刺さる。
「彼女は脚本家だ。俺は俳優だ」
「立場を壊したくなかった」
「……それで?」
翔が一歩近づく。
「彼女の心が壊れそうでも?」
蓮の喉が、詰まる。
「今の水無月さん」
「誰にも寄りかかれない場所で、一人で踏ん張ってる」
「それ、見えてないわけじゃないだろ」
見えている。
だから、苦しい。
「……だから、俺は」
蓮は、拳を握りしめた。
「だから……待つって……」
その瞬間。
稽古場の向こうで、亜理沙の声が弾けた。
「水無月さーん!
この台詞、感情どう乗せます?」
あかりが少し驚いた顔で振り向く。
「あ、えっと……」
迷い。 戸惑い。 でも、誰にも助けを求めない目。
その横顔を見た瞬間。
蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。
(……俺は)
(“待つ”って言葉の後ろに)
(逃げてただけじゃないのか)
蓮は、無意識に一歩踏み出していた。
「あかりさん」
名前を呼びかけて──
止まる。
言えば、越える。
言えば、戻れない。
喉の奥まで出かかった言葉。
「俺は、もう──」
その先を、飲み込んだ。
あかりが、こちらを見る。
ほんの一瞬。 視線が絡む。
何かを期待して。 何かを恐れて。
「……なんでもない」
蓮は、そう言って目を逸らした。
逃げた。
自覚してしまったからこそ、余計に苦しい。
翔は、その背中を見て、静かに言う。
「……今の、惜しかったな」
「……うるさい」
「でも」
翔は、はっきり言った。
「“待たない”って言葉が出かけたってことは」
「もう、時間の問題だ」
蓮は、答えない。
でも、心臓は正直だった。
ドクドクと、
“待つ役”ではいられない鼓動を刻んでいる。
その夜。
蓮は、初めてはっきりと思った。
(次に名前を呼ぶときは)
(……逃げない)
“待たない”という選択が、
もう、すぐそこまで来ていた。



