稽古場は、いつもより少しだけ騒がしかった。
次の舞台に向けた本読み前の時間。
役者たちは台本を手に雑談し、亜理沙はその中心で、無邪気に笑っている。
「えー、ここってこういうテンポなんですか?
私、もっと間がある方がキュンとすると思うんですけど!」
その一言で、数人の視線が自然と水無月あかりに集まった。
あかりは、一瞬だけ言葉を探す。
「……そこは、まだ仮だから。
稽古で詰めていこう」
いつもの、脚本家としての落ち着いた声。
けれど、指先がほんのわずかに震えているのを、蓮は見逃さなかった。
(……昨夜の続きだ)
眠れない夜。
同じ月の下で、互いに気づいてしまったこと。
それを、何事もなかったように飲み込もうとしている姿が、逆に痛い。
「水無月さん」
翔が、軽い調子で声をかける。
「その“間”、
蓮が入るなら成立しますよね」
空気が、わずかに張りつめる。
「……そうね」
あかりは視線を落とし、頷いた。
「桜井くんは、待つ芝居ができるから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。
“待つ役”。
評価としては正しい。
役者として、誇るべきことだ。
なのに──
(それで、いいのか)
蓮は、台本を持つ手に力を込めた。
そのとき。
「でも、それって」
亜理沙が、首をかしげる。
「待つ側ばっかり、しんどくないですか?」
全員が、一斉に亜理沙を見る。
本人はまったく気づいていない様子で、続けた。
「だって、踏み出す人がいなかったら、
物語、ずっと動かないじゃないですか」
しん、と静まり返る稽古場。
(……刺さるなあ)
誰の胸にも。
特に──
あかりの指が、台本の端を強くつかむ。
「……役の話、よね?」
絞り出すような声。
「はい、役の話です!」
亜理沙はにっこり笑う。
「でも、現実も一緒じゃないですか?
待ってる人と、踏み出す人。
どっちもいないと、恋って成立しないですし」
爆弾だった。
悪意ゼロ。
むしろ純度100%の正論。
(やめろ……)
蓮は、思わず一歩踏み出しそうになって、止まる。
あかりが、顔を上げる。
視線が、蓮とぶつかった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、脚本家ではない“一人の女性”の目をしていた。
迷い。
不安。
そして──期待。
(……あ)
その瞬間、蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。
“越えない”と決めていた一線。
“待つ”ことが優しさだと思っていた自分。
(俺は……)
踏み出す役を、誰かに押し付けていただけじゃないのか。
「……桜井さん?」
亜理沙の声で、我に返る。
「次の読み、ここからでいいですか?」
「あ、ああ……」
返事をしながらも、心はまったく別の場所にあった。
稽古が再開される。
台本の文字が、いつもより近く、重く感じる。
(待つ役でいる限り)
(俺は、何も変えられない)
その自覚だけが、はっきりと胸に残っていた。
稽古場の隅で、翔がその様子を見て、静かに笑う。
(気づいたか)
(でも──)
踏み出すのは、覚悟がいる。
そして、覚悟の遅れは、致命傷になる。
誰よりも、それを知っているのは──
舞台に立ち続けてきた、役者自身なのだから。
次の舞台に向けた本読み前の時間。
役者たちは台本を手に雑談し、亜理沙はその中心で、無邪気に笑っている。
「えー、ここってこういうテンポなんですか?
私、もっと間がある方がキュンとすると思うんですけど!」
その一言で、数人の視線が自然と水無月あかりに集まった。
あかりは、一瞬だけ言葉を探す。
「……そこは、まだ仮だから。
稽古で詰めていこう」
いつもの、脚本家としての落ち着いた声。
けれど、指先がほんのわずかに震えているのを、蓮は見逃さなかった。
(……昨夜の続きだ)
眠れない夜。
同じ月の下で、互いに気づいてしまったこと。
それを、何事もなかったように飲み込もうとしている姿が、逆に痛い。
「水無月さん」
翔が、軽い調子で声をかける。
「その“間”、
蓮が入るなら成立しますよね」
空気が、わずかに張りつめる。
「……そうね」
あかりは視線を落とし、頷いた。
「桜井くんは、待つ芝居ができるから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。
“待つ役”。
評価としては正しい。
役者として、誇るべきことだ。
なのに──
(それで、いいのか)
蓮は、台本を持つ手に力を込めた。
そのとき。
「でも、それって」
亜理沙が、首をかしげる。
「待つ側ばっかり、しんどくないですか?」
全員が、一斉に亜理沙を見る。
本人はまったく気づいていない様子で、続けた。
「だって、踏み出す人がいなかったら、
物語、ずっと動かないじゃないですか」
しん、と静まり返る稽古場。
(……刺さるなあ)
誰の胸にも。
特に──
あかりの指が、台本の端を強くつかむ。
「……役の話、よね?」
絞り出すような声。
「はい、役の話です!」
亜理沙はにっこり笑う。
「でも、現実も一緒じゃないですか?
待ってる人と、踏み出す人。
どっちもいないと、恋って成立しないですし」
爆弾だった。
悪意ゼロ。
むしろ純度100%の正論。
(やめろ……)
蓮は、思わず一歩踏み出しそうになって、止まる。
あかりが、顔を上げる。
視線が、蓮とぶつかった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、脚本家ではない“一人の女性”の目をしていた。
迷い。
不安。
そして──期待。
(……あ)
その瞬間、蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。
“越えない”と決めていた一線。
“待つ”ことが優しさだと思っていた自分。
(俺は……)
踏み出す役を、誰かに押し付けていただけじゃないのか。
「……桜井さん?」
亜理沙の声で、我に返る。
「次の読み、ここからでいいですか?」
「あ、ああ……」
返事をしながらも、心はまったく別の場所にあった。
稽古が再開される。
台本の文字が、いつもより近く、重く感じる。
(待つ役でいる限り)
(俺は、何も変えられない)
その自覚だけが、はっきりと胸に残っていた。
稽古場の隅で、翔がその様子を見て、静かに笑う。
(気づいたか)
(でも──)
踏み出すのは、覚悟がいる。
そして、覚悟の遅れは、致命傷になる。
誰よりも、それを知っているのは──
舞台に立ち続けてきた、役者自身なのだから。



