恋のリハーサルは本番です

──稽古場・午後

十五分休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。

それなのに、誰もすぐには立ち上がらなかった。

空気だけが、微妙に変わっている。

「……じゃ、次いきましょうか」

演出家・佐藤の声で、ようやく場が動き出す。

水無月あかりは、台本を胸に抱え直し、深く息を吸った。

(落ち着け)
(仕事、仕事)

そう言い聞かせるほど、心臓の音がうるさい。

──亜理沙の一言が、まだ耳に残っている。

『え、三角関係ですよね?』

(違う)
(私は、脚本家で)
(蓮さんは、主演で)
(翔さんは……)

思考が、途中で止まる。

正解を並べるほど、嘘になる気がした。

「……あかりさん?」

名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。

振り向くと、桜井蓮が立っていた。

距離は、いつもと同じ。 声のトーンも、同じ。

──なのに。

(近い)

さっきまで、気にならなかった距離が、 急に、意識を持って迫ってくる。

「次のシーン、確認いいですか」

「……あ、はい」

声が、ほんの少し裏返った。

それだけで、胸がざわつく。

蓮は気づいたのか、気づいていないのか。 一瞬だけ視線を逸らし、台本を開いた。

「この台詞のあと、間が一拍増えてますよね」

「……ええ」

あかりは頷く。

「ヒロインが、答えを出す前の沈黙です」

「答え……」

蓮が、その言葉をなぞるように呟く。

(やめて)
(その声で、その表情で)

これは仕事。 これは稽古。

──そう分かっているのに。

「……その沈黙」

蓮は、ゆっくりと顔を上げた。

「俺、どう立っていればいいですか」

その質問は、演技の話のはずだった。

でも、あかりの胸は、嫌なほど鳴った。

(どう、立っていればいいか)

それは、今の自分が一番答えられない問いだった。

「……動かなくて、いいです」

あかりは、少しだけ視線を落とす。

「ヒロインが気づくまで、相手役は……待っているだけで」

言った瞬間、後悔した。

(違う)
(それは……)

蓮の目が、揺れた。

ほんの一瞬。 でも、確かに。

「……そっか」

短い返事。

それ以上、何も言わなかった。

その沈黙が、さっきの稽古より、ずっと重い。

(待つ)
(待っているだけ)

それは、彼自身のことだったのか。 それとも──

「……失礼しまーす」

軽い声が割って入る。

「二人とも、なんか重くないです?」

姫野亜理沙だった。

両手にペットボトルを持ち、無邪気な笑顔。

「はい、差し入れ! 糖分大事です!」

あかりに一本、蓮に一本。

助け舟のつもりなのか、爆弾なのか分からない。

「脚本家さんも主演さんも、顔怖いですよ?」

「……そ、そう?」

あかりは苦笑する。

「だって今、“待つ”とか“答え”とか、恋愛ドラマみたいな空気でしたもん」

「……」

蓮が、黙ったままペットボトルを開ける。

亜理沙は気にせず続けた。

「私、思うんですけど」

にこにこしたまま、とんでもない正論を投げる。

「迷ってる人がいるなら、誰かが動かないと、ずっとそのままですよね」

あかりの指が、台本を強く握る。

(やめて)
(これ以上、言葉にしないで)

「……舞台って」

亜理沙は、少し首を傾げた。

「“待つ役”も大事ですけど、“踏み出す役”がいないと、話、進まなくないですか?」

その瞬間。

蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。

(……ああ)

待つことが、優しさだと思っていた。 越えないことが、誠実だと思っていた。

でも──

(それって)
(ただ、逃げてただけじゃないか)

蓮は、ペットボトルを握りしめる。

視線の先で、 あかりが、完全に言葉を失っていた。

脚本家としての顔が、剥がれ落ちそうになっている。

一人の女性として、 感情に追いつけない顔。

(……しまった)

その表情を見た瞬間、 蓮は、はっきりと理解してしまった。

(俺は)
(もう、越えないつもりでいられない)

「……亜理沙」

蓮が、静かに言った。

「その話、あとで」

声は低く、決意を含んでいた。

亜理沙は目を丸くし、すぐに察したように笑う。

「はーい。空気読めない役、ここまでですね!」

そう言って、軽やかに離れていく。

残された二人。

あかりは、まだ俯いたままだった。

「……水無月さん」

蓮の声が、少しだけ近づく。

(来ないで)
(でも──)

心が、矛盾だらけになる。

「俺」

言葉が、途中で止まる。

越えるか、越えないか。 その一線の上で。

「……このあと、少し時間もらえますか」

それは、告白じゃない。 でも、ただの仕事の話でもなかった。

あかりは、ゆっくり顔を上げる。

目が合う。

逃げ場は、もうなかった。

「……稽古が終わってからなら」

精一杯の、冷静な声。

蓮は、静かに頷いた。

「ありがとうございます」

その一言が、 “脚本家”に向けたものじゃないと、 二人とも、分かってしまっていた。

──次の幕は、もう上がり始めている。