──翌朝。
稽古場の空気は、いつもと同じはずだった。
照明の確認、音響の調整、役者たちのストレッチ。
誰かが笑って、誰かが台本をめくる音がする。
なのに。
水無月あかりは、台本を開いたまま、そこに書かれている文字を見ていなかった。
(……違う)
昨夜、あれほど必死に整えたはずのシーン。
ヒロインの感情曲線。
沈黙の一拍。
視線の動き。
すべてが、嘘に見えた。
「水無月さん?」
声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。
亜理沙だった。いつもの、屈託のない笑顔。
「今日の稽古、ラストのシーンからですよね?」
「……え、あ、うん。そう」
返事をしながら、あかりは自分の声が少し震えていることに気づく。
(集中しなきゃ)
(脚本家として)
視線を上げると、桜井蓮が立っていた。
すでに役に入った顔。
静かで、研ぎ澄まされていて。
その瞬間、胸が痛んだ。
(この人に)
(私は、何を書いてる?)
「じゃあ、行きましょう」
演出の合図。
場面が始まる。
ヒロインは、相手役を見る。
言葉を探す。
想いを飲み込む。
──そのはずだった。
「……」
蓮の目が、あかりを見る。
正確には、演出席の“脚本家”ではなく。
(見ないで)
思わず、視線を落とした。
その一瞬。
「ストップ」
自分の声だった。
稽古場が静まる。
「……すみません。今の、なしで」
「水無月さん?」
誰かが心配そうに呼ぶ。
蓮も、少し驚いた顔でこちらを見る。
あかりは、台本を閉じた。
「……このシーン、今日やめます」
ざわ、と小さなどよめき。
「理由は……」 言葉が、続かない。
(言えない)
(これは、技術の問題じゃない)
「……書き直します」
そう言って、頭を下げた。
稽古場を出る背中に、視線が刺さる。
蓮のものだと、わかっていた。
廊下に出た瞬間、膝が少し震えた。
(書けなくなった理由)
(それは)
──私が、もう当事者だから。
逃げるように、あかりは歩き出す。
その背中を見送りながら、蓮は拳を握りしめていた。
(……待つって)
(こういうことかよ)
初めて、強く、後悔した。
この夜が、
「踏み越えなかった選択」を悔やむ始まりになることを、
まだ誰も知らない。
稽古場の空気は、いつもと同じはずだった。
照明の確認、音響の調整、役者たちのストレッチ。
誰かが笑って、誰かが台本をめくる音がする。
なのに。
水無月あかりは、台本を開いたまま、そこに書かれている文字を見ていなかった。
(……違う)
昨夜、あれほど必死に整えたはずのシーン。
ヒロインの感情曲線。
沈黙の一拍。
視線の動き。
すべてが、嘘に見えた。
「水無月さん?」
声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。
亜理沙だった。いつもの、屈託のない笑顔。
「今日の稽古、ラストのシーンからですよね?」
「……え、あ、うん。そう」
返事をしながら、あかりは自分の声が少し震えていることに気づく。
(集中しなきゃ)
(脚本家として)
視線を上げると、桜井蓮が立っていた。
すでに役に入った顔。
静かで、研ぎ澄まされていて。
その瞬間、胸が痛んだ。
(この人に)
(私は、何を書いてる?)
「じゃあ、行きましょう」
演出の合図。
場面が始まる。
ヒロインは、相手役を見る。
言葉を探す。
想いを飲み込む。
──そのはずだった。
「……」
蓮の目が、あかりを見る。
正確には、演出席の“脚本家”ではなく。
(見ないで)
思わず、視線を落とした。
その一瞬。
「ストップ」
自分の声だった。
稽古場が静まる。
「……すみません。今の、なしで」
「水無月さん?」
誰かが心配そうに呼ぶ。
蓮も、少し驚いた顔でこちらを見る。
あかりは、台本を閉じた。
「……このシーン、今日やめます」
ざわ、と小さなどよめき。
「理由は……」 言葉が、続かない。
(言えない)
(これは、技術の問題じゃない)
「……書き直します」
そう言って、頭を下げた。
稽古場を出る背中に、視線が刺さる。
蓮のものだと、わかっていた。
廊下に出た瞬間、膝が少し震えた。
(書けなくなった理由)
(それは)
──私が、もう当事者だから。
逃げるように、あかりは歩き出す。
その背中を見送りながら、蓮は拳を握りしめていた。
(……待つって)
(こういうことかよ)
初めて、強く、後悔した。
この夜が、
「踏み越えなかった選択」を悔やむ始まりになることを、
まだ誰も知らない。



