恋のリハーサルは本番です

稽古場の床に落ちた台本が、ぱさりと音を立てた。

水無月あかりは、その音にすら過剰に反応してしまう自分に気づいて、唇を噛んだ。

紙束を拾い上げようとして、指先が震える。

「……ごめん、今のナシ。ちょっと休憩入れよう」

演出家・佐藤の声は、いつもより柔らかかった。

それが逆に、あかりの胸を締めつける。

「脚本、少し直します。十分……十分で」

自分で言っておきながら、十分では足りないと分かっている。

頭の中が、さっきの亜理沙の一言で埋め尽くされていた。

──え、三角関係ですよね?

違う。

はずだった。

恋愛は、書くもの。

舞台の上で、役者に委ねるもの。

自分が当事者になるなんて、想定外だった。

「……センセ」

声をかけてきたのは、翔だった。

蓮がいないことを、あかりは一瞬で察した。

その事実が、なぜか胸に刺さる。

「さっきの、気にしなくていい」

翔はいつも通り、余裕のある笑みを浮かべている。

けれど、その目は真剣だった。

「亜理沙、ああいうこと言うけどさ。あんたが揺れたのは、脚本のせいじゃない」

「……」

「俺は逃げないって言ったろ」

低い声。

冗談めかした調子を、今日は一切まとっていない。

「あんたが脚本家でも、ただの女でも。俺は区別しない」

あかりは、何も返せなかった。

言葉を選ぼうとする思考が、完全に止まっている。

それは脚本が崩れたからではない。

自分の中に、書いていなかった感情が生まれてしまったからだ。

その背後、稽古場の廊下。

桜井蓮は、立ち尽くしていた。

翔の声が、あかりに向けられる覚悟が、すべて聞こえてしまった。

耳を塞ぐことも、立ち去ることもできなかった。

──俺は、何をしてる。

「待つ」と決めたはずだった。

越えない一線を、守ると決めたはずだった。

なのに。

翔は、もう一歩踏み出している。

(……遅いんだよ)

自分に向けた苛立ちに、蓮は奥歯を噛みし
めた。

稽古場の中から、あかりの声が聞こえる。

「……少し、時間をください」

震えている。

脚本家としてではなく、一人の女性として。

その声を聞いた瞬間、蓮ははっきり理解した。

──待つっていうのは、優しさじゃない。
──選ばないことは、逃げだ。

拳を握りしめ、蓮は静かに踵を返した。

今夜は眠れない。

だが、それでいい。

初めて、「動く」覚悟が、胸の奥で形を持ち始めていた。