稽古場の空気は、いつもより少し軽かった。
新しい舞台の読み合わせが始まり、全体の流れもようやく形になりつつある。
笑いが起きるところ、間が生きるところ。
演出家・佐藤の声も、今日はどこか柔らかい。
「はい、今日はここまで。十五分休憩!」
その一言で、空気がほどけた。
役者たちが立ち上がり、ペットボトルを取りに行く。
姫野亜理沙は台本を抱えたまま、勢いよく伸びをした。
「はー! やっぱり読み合わせ楽しいですね!
言葉が立ち上がる感じが!」
「初日より声出てたな」
翔が笑いながら言うと、亜理沙は得意げに胸を張る。
「ですよね?
あ、でもさっきの二人の間、ちょっと空気止まりませんでした?」
「……どこが」
蓮が反射的に聞き返す。
「ほら、あそこです。
ヒロインが一瞬迷ってから台詞を言うところ」
亜理沙は、無邪気に首をかしげた。
「脚本的に間を取るのは分かるんですけど、
あれ、台詞より“目”で会話してましたよね?」
視線が、自然とあかりへ向く。
あかりは、手元の台本から顔を上げていなかった。
けれど、その指先が一瞬止まったのを、蓮は見逃さなかった。
「……演出上、必要な間よ」
あかりは淡々と答える。
「ヒロインはその時点で、もう答えを持ってる。
ただ、言葉にする覚悟が追いついてないだけ」
「うわ……」
亜理沙が小さく息を飲む。
「それ、めっちゃ恋ですね」
空気が、一拍遅れて固まった。
「姫野」
佐藤が咳払いをする。
「休憩中とはいえ、あまり感情分析しすぎるな」
「すみません!」
亜理沙は慌てて頭を下げるが、どこか楽しそうだった。
蓮は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(覚悟が、追いついてない……)
それは、役の話なのか。
それとも──。
休憩時間。
蓮は自販機の前で立ち止まっていた。
小銭を入れて、ボタンを押す。
缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。
「あ」
背後から、あかりの声。
振り向くと、彼女もまた飲み物を選んでいた。
二人きり。
ほんの数歩の距離なのに、
今までとは違う緊張が、確かにあった。
「……さっきの説明、分かりやすかったです」
蓮が先に口を開く。
「あの間、やっぱり意味があったんですね」
「ええ」
あかりは小さく頷く。
「言葉にしない時間って、逃げにもなるし……
でも、逃げきれない感情が滲む瞬間でもあるから」
「……脚本家として?」
そう聞いた瞬間、あかりの視線が一瞬だけ揺れた。
「……今は、それしか言えない」
その答えが、蓮の胸に刺さる。
(越えない)
そう決めていた。
脚本家と俳優。
作品と感情。
その境界を、尊重すると。
──でも。
「水無月さん」
名前を呼んだ瞬間、
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「俺、あのシーン……」
言いかけて、言葉を探す。
(これ以上は、踏み込むな)
理性が警告する。
けれど、感情は止まらなかった。
「……あの沈黙、好きです」
短い一言。
でも、それは
“役”への感想にしては、近すぎた。
あかりは、ゆっくりと蓮を見る。
脚本家としてではなく、
“一人の女性”として、測るような目で。
「……ありがとう」
その声は、少しだけ柔らかかった。
沈黙。
越えてはいない。
まだ、線のこちら側だ。
けれど──
(踏みかけた)
蓮は、はっきり自覚していた。
自分は今、
「越えない」と決めていた一線に、
意識的に足をかけている。
「休憩、そろそろ終わりますね」
あかりが先に視線を外す。
「ええ」
蓮は頷く。
戻る背中を見送りながら、
胸の奥で、何かが静かに動き出していた。
逃げない、という選択肢。
待つだけが、優しさじゃないかもしれないという予感。
稽古場に戻ると、
翔がこちらを見て、意味ありげに笑った。
(……見られてたな)
それでも、もう引き返せなかった。
線はまだ越えていない。
だが──
踏みかけた一線は、もう消えない。
次に動くのは、誰か。
それだけが、まだ分からなかった。
新しい舞台の読み合わせが始まり、全体の流れもようやく形になりつつある。
笑いが起きるところ、間が生きるところ。
演出家・佐藤の声も、今日はどこか柔らかい。
「はい、今日はここまで。十五分休憩!」
その一言で、空気がほどけた。
役者たちが立ち上がり、ペットボトルを取りに行く。
姫野亜理沙は台本を抱えたまま、勢いよく伸びをした。
「はー! やっぱり読み合わせ楽しいですね!
言葉が立ち上がる感じが!」
「初日より声出てたな」
翔が笑いながら言うと、亜理沙は得意げに胸を張る。
「ですよね?
あ、でもさっきの二人の間、ちょっと空気止まりませんでした?」
「……どこが」
蓮が反射的に聞き返す。
「ほら、あそこです。
ヒロインが一瞬迷ってから台詞を言うところ」
亜理沙は、無邪気に首をかしげた。
「脚本的に間を取るのは分かるんですけど、
あれ、台詞より“目”で会話してましたよね?」
視線が、自然とあかりへ向く。
あかりは、手元の台本から顔を上げていなかった。
けれど、その指先が一瞬止まったのを、蓮は見逃さなかった。
「……演出上、必要な間よ」
あかりは淡々と答える。
「ヒロインはその時点で、もう答えを持ってる。
ただ、言葉にする覚悟が追いついてないだけ」
「うわ……」
亜理沙が小さく息を飲む。
「それ、めっちゃ恋ですね」
空気が、一拍遅れて固まった。
「姫野」
佐藤が咳払いをする。
「休憩中とはいえ、あまり感情分析しすぎるな」
「すみません!」
亜理沙は慌てて頭を下げるが、どこか楽しそうだった。
蓮は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(覚悟が、追いついてない……)
それは、役の話なのか。
それとも──。
休憩時間。
蓮は自販機の前で立ち止まっていた。
小銭を入れて、ボタンを押す。
缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。
「あ」
背後から、あかりの声。
振り向くと、彼女もまた飲み物を選んでいた。
二人きり。
ほんの数歩の距離なのに、
今までとは違う緊張が、確かにあった。
「……さっきの説明、分かりやすかったです」
蓮が先に口を開く。
「あの間、やっぱり意味があったんですね」
「ええ」
あかりは小さく頷く。
「言葉にしない時間って、逃げにもなるし……
でも、逃げきれない感情が滲む瞬間でもあるから」
「……脚本家として?」
そう聞いた瞬間、あかりの視線が一瞬だけ揺れた。
「……今は、それしか言えない」
その答えが、蓮の胸に刺さる。
(越えない)
そう決めていた。
脚本家と俳優。
作品と感情。
その境界を、尊重すると。
──でも。
「水無月さん」
名前を呼んだ瞬間、
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「俺、あのシーン……」
言いかけて、言葉を探す。
(これ以上は、踏み込むな)
理性が警告する。
けれど、感情は止まらなかった。
「……あの沈黙、好きです」
短い一言。
でも、それは
“役”への感想にしては、近すぎた。
あかりは、ゆっくりと蓮を見る。
脚本家としてではなく、
“一人の女性”として、測るような目で。
「……ありがとう」
その声は、少しだけ柔らかかった。
沈黙。
越えてはいない。
まだ、線のこちら側だ。
けれど──
(踏みかけた)
蓮は、はっきり自覚していた。
自分は今、
「越えない」と決めていた一線に、
意識的に足をかけている。
「休憩、そろそろ終わりますね」
あかりが先に視線を外す。
「ええ」
蓮は頷く。
戻る背中を見送りながら、
胸の奥で、何かが静かに動き出していた。
逃げない、という選択肢。
待つだけが、優しさじゃないかもしれないという予感。
稽古場に戻ると、
翔がこちらを見て、意味ありげに笑った。
(……見られてたな)
それでも、もう引き返せなかった。
線はまだ越えていない。
だが──
踏みかけた一線は、もう消えない。
次に動くのは、誰か。
それだけが、まだ分からなかった。



