稽古場の扉を出た瞬間、冷たい風があかりの頬を撫でた。
 外の空気は春の匂いがするのに、胸の奥は冬みたいに冷たかった。

 足元の影が震えている。
 涙をこらえようと、深呼吸をしてみても、うまくいかない。
 目を閉じると、浮かんでくるのは蓮の笑顔。
 昨日、自分に向けてくれたあの優しいまなざしが、どうしようもなく胸を痛める。

(だめだよ、私……仕事なのに)

 演出家の佐藤に「恋してる目」と言われていた蓮。
 それが全部、芝居のための感情なら、どんなに楽だろう。
 でも、もしも違うなら?
 考えるだけで、怖くなる。

「……集中しなきゃ」

 小さく呟いて、バッグからノートパソコンを取り出した。
 稽古場の近くのカフェ。いつも彼女が台本を直す場所。
 パソコンの画面には、まだ未完成の第3幕が開かれている。

> 『本当の恋は、リハーサルでは終わらない。』



 打ち込んだその一行を見て、指が止まった。
 自分で書いた言葉なのに、今のあかりには痛すぎた。

 パソコンの隣には、手書きの小さなメモ帳。
 そこには、昨日の稽古で感じた蓮の表情、声のトーン、指先の震え……細かい観察がびっしりと書かれていた。
 それを見つめながら、胸の奥が熱くなる。
 あれは演技じゃない。
 そう信じたかった。

 でも。

「……私、勘違いしてるのかな」

 美咲の言葉が、頭の中で何度もリピートする。
 “優しいから、誰にでも全力”
 そういう人なんだ、と。

 指先が震える。
 Enterキーを押す代わりに、彼女はゆっくりとノートを閉じた。
 ページの端に、ひとことだけ書き残して。

> 「距離を置こう」



 一方そのころ、蓮は稽古場の隅で、美咲と台本を合わせていた。
 でも、心はどこか遠くにあった。

「桜井くん、今日ちょっと元気ない?」
「……そう見えますか?」
「うん。昨日のほうがずっといい表情してた。あのときみたいに、感情出してみて」

 美咲の声が、どこか優しく、そして探るように響いた。
 その響きに、蓮は視線を逸らす。
 あかりのいない稽古場が、こんなにも空虚だとは思わなかった。

「……美咲、あかりさんは?」
「脚本、直しに行ったみたい。もう来ないかもね」
「え……?」
「さっき見たけど、泣いてたよ」

 胸の奥が、ズキッと痛んだ。
 理由なんて、考えるまでもない。
 彼女が悲しんでいるのは、自分のせいだと、わかっていた。

「……すみません。少し出てきます」
「え、ちょ、桜井くん!? 稽古は──」

 その声を背に、蓮は走り出した。
 冷たい風が頬を叩く。
 どこに行くかなんて、わかっていない。
 ただ、探さなきゃと思った。
 あかりの笑顔を、もう一度取り戻さなきゃ、と。

 

 カフェの前の歩道で、蓮はようやく見つけた。
 ノートPCを閉じて、空を見上げているあかりの姿。
 その横顔には、ほんの少し涙の跡が残っていた。

「あかりさん!」
 思わず声を張り上げる。
 あかりが驚いたように振り返った。

「蓮さん……どうしてここに?」
「心配で……」

 一言で、すべてを説明できるわけじゃない。
 でも、伝えたかった。
 彼女が自分の舞台の中心にいるということを。

「……あかりさんがいないと、俺、演技できないんです」

 その言葉に、あかりの目が見開かれた。
 カップの中のコーヒーが、少しだけ波打つ。
 しばらくの沈黙。
 そして、あかりが静かに口を開いた。

「それは、役としてですか? それとも──」

 問いかけの途中で、風が二人の間を通り抜けた。
 桜の花びらが一枚、蓮の肩に落ちる。
 彼はゆっくりと、それを指先で受け取った。

「……わからない。でも、俺の中でリハーサルと本番の境界が、もうなくなりました」

 あかりの瞳が揺れる。
 そして、俯いたまま、小さく笑った。

「それ……ずるいです」
「え?」
「そんなこと言われたら、また脚本が書けなくなります」

 涙と笑顔が混ざったその表情に、蓮は何も言えなかった。
 ただ、二人の間にある“距離”が、また少しだけ近づいた気がした。