稽古場は、朝から微妙に空気が重かった。
原因は、誰も口にしないけれど明白だ。
桜井蓮は、いつもより静か。
水無月あかりは、いつもより壁が高い。
二人とも、目が合いそうで合わない。
(……なにこの空気)
姫野亜理沙は、ストレッチをしながら首をかしげた。
(昨日まで、もうちょっと仲良さそうだったよね?)
ヒロイン役として参加して数日。
役柄の理解は深まっているのに、人間関係が難解だ。
「じゃあ、読み合わせいこうか」
演出家・佐藤の声で、全員が台本を手に取る。
蓮と亜理沙は、向かい合う配置。
「……よろしくお願いします」
「はい! よろしくお願いします!」
亜理沙は元気よく返す。
その反動で、蓮が一瞬だけ目を細めた。
(……桜井さん、顔いいな)
いや、違う。
役に集中しろ、役に。
読み合わせが進む。
問題のシーンは、ヒロインが想いを自覚する場面。
「……あなたが笑うと、
どうして胸が苦しくなるんでしょう」
亜理沙が台詞を言い終えた瞬間。
「ストップ」
佐藤が手を挙げた。
「姫野。今の台詞、どういう気持ちで言った?」
亜理沙は少し考えてから、素直に答える。
「えっと……
好きって気づいちゃったから、逃げたい気持ちです」
「ほう」
「でも、相手が優しいから、余計に苦しい、みたいな」
一瞬、静寂。
蓮が、わずかに息を詰める。
あかりは、ペンを止めた。
「……で」
佐藤が、さらに聞く。
「相手役は、どうしてその距離を保ってる?」
亜理沙は、首を傾げた。
「え?」
「ヒロインが苦しんでるのに、踏み込まない理由」
亜理沙は、数秒考えて。
そして、悪気ゼロで言った。
「それ、優しさじゃなくて
逃げじゃないですか?」
──空気が、凍った。
蓮の脳内で、何かが砕ける音がした。
(……逃げ)
あかりも、思わず顔を上げる。
佐藤が、にやりと笑った。
「続けて?」
「はい」
亜理沙は、勢いづいた。
「相手の人生とか、立場とか、
考えてる“ふり”してるけど」
「本当は、自分が傷つくのが怖いだけ、ですよね」
(……え、私、なんかやらかしてる?)
場の空気を察しつつも、止まらない。
「だって、本当に大事なら」
「ちゃんと向き合わない方が、残酷じゃないですか?」
沈黙。
重すぎる正論が、稽古場に落ちた。
最初に動いたのは、翔だった。
「……ヒロイン、容赦ないね」
くすっと笑う。
「刺さる人、多そう」
蓮は、笑えなかった。
あかりは、視線を落としたまま動かない。
佐藤は、手を叩いた。
「いいね。
姫野、その感覚、大事にしよう」
「え、ほんとですか?」
「うん。
この舞台、恋は“優しさ”じゃ終わらない」
亜理沙は、ほっとして座り直す。
(よかった……怒られなくて)
その直後。
蓮が、ぽつりと言った。
「……姫野さん」
「はい?」
「……今の話」
少し、言葉に詰まる。
「個人的にも、刺さりました」
亜理沙は目を丸くする。
「えっ!?
あ、すみません! 偉そうでしたよね私!」
慌てる亜理沙に、蓮は小さく笑った。
「いえ。
むしろ……ありがとうございます」
そのやり取りを、あかりは見ていた。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……逃げ)
その言葉が、自分にも向けられている気がして。
読み合わせ再開。
亜理沙の台詞は、さっきよりずっとまっすぐだった。
蓮もまた、視線を逸らさない。
そして。
(……この子)
あかりは、内心で思う。
(無自覚で、核心突くのやめて……)
ヒロイン役・姫野亜理沙。
この舞台で一番、
恋の構造を理解していないのに、
一番正しいことを言う存在だった。
原因は、誰も口にしないけれど明白だ。
桜井蓮は、いつもより静か。
水無月あかりは、いつもより壁が高い。
二人とも、目が合いそうで合わない。
(……なにこの空気)
姫野亜理沙は、ストレッチをしながら首をかしげた。
(昨日まで、もうちょっと仲良さそうだったよね?)
ヒロイン役として参加して数日。
役柄の理解は深まっているのに、人間関係が難解だ。
「じゃあ、読み合わせいこうか」
演出家・佐藤の声で、全員が台本を手に取る。
蓮と亜理沙は、向かい合う配置。
「……よろしくお願いします」
「はい! よろしくお願いします!」
亜理沙は元気よく返す。
その反動で、蓮が一瞬だけ目を細めた。
(……桜井さん、顔いいな)
いや、違う。
役に集中しろ、役に。
読み合わせが進む。
問題のシーンは、ヒロインが想いを自覚する場面。
「……あなたが笑うと、
どうして胸が苦しくなるんでしょう」
亜理沙が台詞を言い終えた瞬間。
「ストップ」
佐藤が手を挙げた。
「姫野。今の台詞、どういう気持ちで言った?」
亜理沙は少し考えてから、素直に答える。
「えっと……
好きって気づいちゃったから、逃げたい気持ちです」
「ほう」
「でも、相手が優しいから、余計に苦しい、みたいな」
一瞬、静寂。
蓮が、わずかに息を詰める。
あかりは、ペンを止めた。
「……で」
佐藤が、さらに聞く。
「相手役は、どうしてその距離を保ってる?」
亜理沙は、首を傾げた。
「え?」
「ヒロインが苦しんでるのに、踏み込まない理由」
亜理沙は、数秒考えて。
そして、悪気ゼロで言った。
「それ、優しさじゃなくて
逃げじゃないですか?」
──空気が、凍った。
蓮の脳内で、何かが砕ける音がした。
(……逃げ)
あかりも、思わず顔を上げる。
佐藤が、にやりと笑った。
「続けて?」
「はい」
亜理沙は、勢いづいた。
「相手の人生とか、立場とか、
考えてる“ふり”してるけど」
「本当は、自分が傷つくのが怖いだけ、ですよね」
(……え、私、なんかやらかしてる?)
場の空気を察しつつも、止まらない。
「だって、本当に大事なら」
「ちゃんと向き合わない方が、残酷じゃないですか?」
沈黙。
重すぎる正論が、稽古場に落ちた。
最初に動いたのは、翔だった。
「……ヒロイン、容赦ないね」
くすっと笑う。
「刺さる人、多そう」
蓮は、笑えなかった。
あかりは、視線を落としたまま動かない。
佐藤は、手を叩いた。
「いいね。
姫野、その感覚、大事にしよう」
「え、ほんとですか?」
「うん。
この舞台、恋は“優しさ”じゃ終わらない」
亜理沙は、ほっとして座り直す。
(よかった……怒られなくて)
その直後。
蓮が、ぽつりと言った。
「……姫野さん」
「はい?」
「……今の話」
少し、言葉に詰まる。
「個人的にも、刺さりました」
亜理沙は目を丸くする。
「えっ!?
あ、すみません! 偉そうでしたよね私!」
慌てる亜理沙に、蓮は小さく笑った。
「いえ。
むしろ……ありがとうございます」
そのやり取りを、あかりは見ていた。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……逃げ)
その言葉が、自分にも向けられている気がして。
読み合わせ再開。
亜理沙の台詞は、さっきよりずっとまっすぐだった。
蓮もまた、視線を逸らさない。
そして。
(……この子)
あかりは、内心で思う。
(無自覚で、核心突くのやめて……)
ヒロイン役・姫野亜理沙。
この舞台で一番、
恋の構造を理解していないのに、
一番正しいことを言う存在だった。



