恋のリハーサルは本番です

姫野亜理沙は、正直に言ってしまえば──

稽古場の空気が、今日はやけに美味しいと思っていた。
(なにこれ……ピリッとしてるのに、甘い……)

理由はわかっている。
否、わかっていないからこそ、幸せなのだ。

「じゃあ、次のシーン。ヒロインが相手役に近づくところから」
演出家・佐藤の指示に、亜理沙は台本を閉じる。

(近づく、ね)
相手役は、桜井蓮。
二舞台連続主演。安定感の塊。なのに、今日はどこか硬い。

「……よろしくお願いします」
一歩、距離を詰める。
(あれ?)
蓮が、ほんのわずかに息を止めたのがわかった。
(え、今の……?)

でも台詞は続く。
「──君は、ここに残るつもりか?」
いつも通りの声。
だけど、目が、いつもより真剣。

(うわ……ずる……)
亜理沙の胸が、きゅっと鳴る。

その瞬間。
「……ちょっと待って」
水無月あかりの声。
「亜理沙ちゃん、今の立ち位置、半歩前」
「え? あ、はい!」
言われた通り、半歩。

──結果。
(ち、近……っ)
気づいた時には、蓮との距離が想定より近い。
(え、これ……台本にない距離……)
亜理沙が戸惑った、その一瞬。

「……」
蓮が、視線を逸らした。
(あ)
逸らしたのに、
戻ってくるのが早い。
(なにこの人……)
胸が、また鳴る。

「……そのまま続けて」
あかりの声は、冷静。
でも、ほんの一拍遅れた気がした。

(……?)
亜理沙は気づかない。
自分が、二人の間に無意識に割り込んでいることに。

台詞を言う。
「──残る理由なら、もう決めてるわ」
その瞬間。
「……」
蓮の指先が、わずかに動いた。
触れない。
触れないが、触れそうな距離。
(ま、待って、心臓……!)

「……カット!」
佐藤の声が響く。
「今の、いいな。
姫野、自然だった」
「ほ、ほんとですか?」
「うん。
桜井も、余計なことしてないのがいい」
余計なこと。
──つまり、触れなかったこと。

「……」
蓮が、苦笑する。
その横で。
「……」
あかりが、無言でメモを取っている。
ペン先が、やや強い。

(あれ……?)
ここでようやく、亜理沙は気づく。
(……え?)

視線を動かす。

蓮 → 亜理沙を見る → すぐ逸らす
あかり → 亜理沙を見る → すぐ台本に落とす

(……なに、この三角形)

翔が、にやっと笑って口を挟む。
「姫野さんさあ。
自覚ないの、罪だよ?」
「え!? な、何がですか!?」
「二人とも、振り回されてる」
「???」
全力で首を傾げる亜理沙。
(え、私なにかした!?)

その無垢さに、
蓮は頭を抱えそうになり、

あかりは深呼吸を一つ。

(……危険人物、ここにいた)

稽古場の空気は、
誰一人、同じ温度ではない。

ただ一人──
姫野亜理沙を除いて。

彼女は今日も、
無自覚に胸キュンを量産している。