翌朝。
 あかりはノートパソコンの前で固まっていた。
 画面には、書きかけの脚本の一文。

> 「──あなたの嘘が、私を苦しめたの」



 昨日、あの稽古場で感じた熱と、痛みが、指先に残っていた。
 あれは演技じゃなかった。
 だけど、誰かに見られた瞬間、現実に引き戻された。
 「恋愛リサーチ」──それが二人の関係のはずだったのに。

 トントン。
 扉がノックされる。
 部屋に入ってきたのは、美咲だった。

「おはようございます、あかりさん」
「……おはようございます、美咲さん」

 ぎこちない挨拶。
 美咲はいつも通りの笑顔を浮かべている。
 でも、その奥には、冷たい光があった。

「昨日の稽古、見ちゃいました。すごかったですよ。蓮くん、あんな表情するんですね」
「そ、そうですか?」
「うん。あんなに真剣に誰かを見るなんて、初めて見たかも」

 あかりは息を詰めた。
 美咲の声は柔らかい。でも、その言葉の裏にある棘に気づかないほど、鈍感ではなかった。

「……あの、昨日のことは誤解です。私たち、演技の確認をしていただけで」
「そうなんですね」
 美咲は微笑んだ。
 その微笑みが、逆に痛かった。

「でもね、あかりさん。蓮くんって、昔からそういう人なんです。真剣に向き合うタイプだから、相手は勘違いしちゃうんですよ」
「……勘違い?」
「うん。優しいから、誰にでも全力。でも、それが恋だと錯覚する人もいて」

 あかりの胸に、ひやりと冷たい風が吹いた。
 否定したいのに、言葉が出ない。
 たしかに、蓮の優しさに惹かれたのは自分だ。
 でも、それが“錯覚”だと言われると、何も言い返せなかった。

「私、ヒロインとして頑張りますね」
 美咲は軽やかに言って、去っていった。

 扉が閉まる音がして、あかりはようやく息を吐いた。
 脚本の画面を見つめながら、小さく呟く。

「……錯覚、なんかじゃない」

 でも、その言葉に自信はなかった。


 一方その頃、蓮は劇場のロビーで佐藤演出家に呼び止められていた。

「桜井、昨日の演技、最高だった。お前、何かあったか?」
「いえ……少し、感情が入っただけです」
「そうか。あの“恋してる目”、忘れるなよ。あれが役者の真髄だ」

 “恋してる目”
 その言葉が、胸に刺さる。
 演出家は軽く言ったが、蓮には笑えなかった。
 あのとき見ていたのは、役の相手ではなく──
 本当に、あかり本人だったからだ。

 ふと、稽古場の扉の向こうに美咲の姿が見えた。
 彼女は優しく笑っていた。
 けれど、その笑顔の裏の影に、蓮は気づかなかった。

 そして、その日の稽古が始まる。
 美咲は、いつも以上に完璧だった。
 感情も動きも、すべてが美しい。
 ただ一つ、違っていたのは――
 彼女の視線が、あかりを意識しているように見えたこと。

「……椎名、美咲。すごい演技だ」
「ありがとうございます、蓮くん」
 美咲はほほえむ。
 その笑顔が、なぜか少し怖かった。

 その瞬間、あかりが客席から立ち上がった。
「……すみません、少し、外します」

 稽古場を出たあかりの瞳には、涙が浮かんでいた。