恋のリハーサルは本番です

午前十時。
稽古場の扉を開けた瞬間、いつもと同じはずの空気が、ほんの少しだけ違って感じられた。
「おはようございます」
桜井蓮の声に、数人が返事をする。
そして──少し遅れて。
「……おはようございます」
水無月あかりの声。


視線が、ぶつかりそうで、逸れた。
ほんの一秒にも満たない、そのズレ。
(……だよな)
昨夜の自分の予感が、確信に変わる。
あかりはいつも通り台本を抱え、冷静で、仕事の顔をしている。
なのに、距離が微妙に遠い。
近づいていない。
でも、近づかないようにしている。


「じゃあ、昨日直したシーンからいきます」
演出家・佐藤の声で、空気が動き出す。
役者たちが立ち位置につく中、蓮はいつもの癖で、あかりの方を確認しかけ――やめた。
(見るな)
見ると、気づく。
気づくと、態度に出る。
ヒロイン役の亜理沙が台詞を言い、蓮がそれを受ける。
問題なく進んでいる。
……はずなのに。
「……間、もう一拍」
あかりの声が入る。
昨日、自分が心に留めた“沈黙”。
蓮は、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、間を取った。


その瞬間。
「……あ」
亜理沙が、思わず小さく声を漏らす。
「今の……すごく、来ました」
稽古場がざわつく。
翔が、面白くなさそうに鼻で笑った。
「へえ。さすが主演様。
脚本家の意図、完璧に汲み取るね?」
(……刺してくるな)
蓮は苦笑で流そうとした。


その時。
「……違います」
あかりの声が、きっぱりと響いた。
全員の視線が、彼女に集まる。
「今の間は、“汲み取った”んじゃない。
蓮さんが、自分で選んだ間です」
一拍。
空気が止まる。
「……脚本家として、そう思います」
そう言って、あかりは視線を落とした。


蓮と、目を合わせないまま。
(……ああ)
これは、壁だ。
昨夜、二人が越えかけて、踏みとどまった線。
守ろうとしている距離。
でも──
(近い)
言葉は仕事のものなのに、
その選び方が、妙に胸に残る。


稽古再開の合図が出る。
蓮は役に戻りながら、思う。
(ぎこちないな)
でも。
(……嫌じゃない)
この距離の揺れが、
舞台の上で、何かを生む気がして。
稽古場の隅で、
あかりもまた、同じことを考えていることを──
蓮は、まだ知らない。