カチン、とノートパソコンが床に落ちた音が、やけに大きく響いた。

 その音で我に返ったのは、あかりの方だった。

 顔を上げると、蓮はほんの数センチの距離で立っていた。

 彼の手が、彼女の肩に触れかけていた。



「……桜井くん、今の、演技だよね?」

 あかりの声は、かすれていた。

 けれど、どこか震えている。

 彼女自身、その答えを知りたくてたまらなかった。



 蓮は、何も言わなかった。

 ただ、静かに息を吸って、目を伏せる。

 言葉にした瞬間、何かが壊れそうで怖かった。



 その沈黙の間に──

 稽古場の扉が、わずかに開く音がした。



「……あれ? まだ残ってたの、二人とも?」



 振り返ると、そこに立っていたのは 椎名美咲。

 照明の明かりが背後から差し込み、彼女の影が長く伸びていた。



「美咲……」

 蓮が一歩、後ずさる。

 彼女は笑顔を浮かべていたが、その目は笑っていなかった。



「すごいね。リハーサル、熱入ってるじゃん。まるで本物の恋人みたい」

 軽く言うその声に、張りつめた空気が走る。



 あかりは慌ててノートパソコンを拾い上げた。

「ち、違うんです! 今のは練習で……その、演技の確認で」

 言い訳のような言葉が、空回りする。



 美咲はゆっくりと二人の間を見つめた。

 蓮の表情。あかりの頬の赤み。

 そして、まだ触れそうな距離。



 彼女は静かに息をつき、唇の端を上げた。

「……そっか。リハーサル、ね。私も、ヒロイン役として頑張らなきゃ」



 そう言って笑うその声が、少しだけ震えていた。



 美咲が去ったあと、稽古場には、再び静寂が戻る。

 でも、さっきまでの温度は消えていた。



「……私、帰りますね」

 あかりは俯いたまま、台本を胸に抱えた。

 蓮はその背中に何かを言おうとしたが、声にならなかった。



 扉が閉まり、蛍光灯の音だけが残る。

 残された蓮の胸には、さっきの美咲の表情が焼きついて離れなかった。



 “笑ってた。でも、本当は……”



 そして、心の奥で小さく疼《うず》く。

 あのとき、自分が何も言えなかった理由を。

 “あれが演技じゃない”と、言い切れなかった理由を。