稽古場の扉が開いた瞬間、空気がわずかに変わった。
「──それでは、ヒロイン役オーディションの結果を発表します」
劇団責任者・神埼の声に、場が静まる。
桜井蓮は、背筋を伸ばしたまま前を見ていた。 どこか落ち着かない。
(……どんな人が来るんだろう)
椎名美咲が辞退してから、
この舞台の“空白”は、思った以上に大きかった。
「合格者は──」
一拍。
「姫野亜理沙」
その名と同時に、
一人の女性が前に出た。
「……姫野亜理沙です。二十三歳。
女優を目指しています。よろしくお願いします」
はきはきとした声。 少し緊張しながらも、まっすぐな眼差し。
肩までの黒髪を揺らし、深く一礼する。
「……」
蓮は、無意識に息を止めていた。
(……明るい人だな)
どこか舞台向きの、光を持った雰囲気。
その様子を、客席側から見ていたあかりは、 ノートパソコンの前で小さく息を吐いた。
(……決まったんだ)
ヒロイン。
もう、“空白”ではない。
「じゃあ、早速読み合わせを始めよう」
演出家・佐藤の合図で、全員が台本を開く。
姫野亜理沙は、少しだけ深呼吸してから、
ヒロインの最初の台詞を口にした。
「──ねえ、どうしてそんな顔をするの?」
声が、澄んでいる。
感情を探りながら、丁寧に紡がれる言葉。
蓮は、一瞬だけ戸惑ったが、すぐに役に戻る。
「……君が、遠くに行ってしまいそうで」
言葉が交わる。
台詞。 演技。 ──なのに。
(……美咲とは、全然違う)
当然だ。 同じ役でも、同じ芝居になるはずがない。
姫野は、まだ荒削りだが、
役に向かって必死に手を伸ばしている。
「……」
あかりは、そのやり取りを見つめながら、 胸の奥がきゅっと縮むのを感じていた。
(この台詞……本当は……)
自分の気持ちが、文字に滲んでいるのを知っているから。
「いいね。粗いけど、悪くない」
佐藤が頷く。
「姫野、遠慮しなくていい。
分からないところは、全部聞け」
「はい!」
姫野は元気よく返事をする。
そのまま、蓮の方を向いた。
「桜井さん、よろしくお願いします!」
「……あ、はい。こちらこそ」
不意に距離を詰められ、蓮は少し慌てる。
それを見て──
「ふふ」
小さく笑ったのは、あかりだった。
(……新人同士、か)
胸がちくりとする。 でも、どこか安心もある。
高峰翔が、その様子を見逃すはずもなかった。
「水無月」
「はい?」
「ヒロイン、いい子じゃない?」
意味ありげな笑み。
「……そうですね。真っ直ぐで」
「君の脚本、ああいう役者に当たると伸びる」
翔の視線が、あかりを射抜く。
「──で、君は。
ちゃんと“書けてる?”」
あかりは、一瞬言葉に詰まる。
「……書いてます。ちゃんと」
でも、その答えは、 誰に向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
(新しいヒロイン。新しい空気)
(でも……)
ふと、空いている席を思い出す。
美咲が、もうここにはいないこと。
(俺は……前に進んでいいのか)
視線の先に、あかりがいる。
彼女は、脚本家としてそこに立っている。
──手の届かない場所に。
それでも。
(……待つだけじゃ、何も変わらない)
胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
「──それでは、ヒロイン役オーディションの結果を発表します」
劇団責任者・神埼の声に、場が静まる。
桜井蓮は、背筋を伸ばしたまま前を見ていた。 どこか落ち着かない。
(……どんな人が来るんだろう)
椎名美咲が辞退してから、
この舞台の“空白”は、思った以上に大きかった。
「合格者は──」
一拍。
「姫野亜理沙」
その名と同時に、
一人の女性が前に出た。
「……姫野亜理沙です。二十三歳。
女優を目指しています。よろしくお願いします」
はきはきとした声。 少し緊張しながらも、まっすぐな眼差し。
肩までの黒髪を揺らし、深く一礼する。
「……」
蓮は、無意識に息を止めていた。
(……明るい人だな)
どこか舞台向きの、光を持った雰囲気。
その様子を、客席側から見ていたあかりは、 ノートパソコンの前で小さく息を吐いた。
(……決まったんだ)
ヒロイン。
もう、“空白”ではない。
「じゃあ、早速読み合わせを始めよう」
演出家・佐藤の合図で、全員が台本を開く。
姫野亜理沙は、少しだけ深呼吸してから、
ヒロインの最初の台詞を口にした。
「──ねえ、どうしてそんな顔をするの?」
声が、澄んでいる。
感情を探りながら、丁寧に紡がれる言葉。
蓮は、一瞬だけ戸惑ったが、すぐに役に戻る。
「……君が、遠くに行ってしまいそうで」
言葉が交わる。
台詞。 演技。 ──なのに。
(……美咲とは、全然違う)
当然だ。 同じ役でも、同じ芝居になるはずがない。
姫野は、まだ荒削りだが、
役に向かって必死に手を伸ばしている。
「……」
あかりは、そのやり取りを見つめながら、 胸の奥がきゅっと縮むのを感じていた。
(この台詞……本当は……)
自分の気持ちが、文字に滲んでいるのを知っているから。
「いいね。粗いけど、悪くない」
佐藤が頷く。
「姫野、遠慮しなくていい。
分からないところは、全部聞け」
「はい!」
姫野は元気よく返事をする。
そのまま、蓮の方を向いた。
「桜井さん、よろしくお願いします!」
「……あ、はい。こちらこそ」
不意に距離を詰められ、蓮は少し慌てる。
それを見て──
「ふふ」
小さく笑ったのは、あかりだった。
(……新人同士、か)
胸がちくりとする。 でも、どこか安心もある。
高峰翔が、その様子を見逃すはずもなかった。
「水無月」
「はい?」
「ヒロイン、いい子じゃない?」
意味ありげな笑み。
「……そうですね。真っ直ぐで」
「君の脚本、ああいう役者に当たると伸びる」
翔の視線が、あかりを射抜く。
「──で、君は。
ちゃんと“書けてる?”」
あかりは、一瞬言葉に詰まる。
「……書いてます。ちゃんと」
でも、その答えは、 誰に向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
(新しいヒロイン。新しい空気)
(でも……)
ふと、空いている席を思い出す。
美咲が、もうここにはいないこと。
(俺は……前に進んでいいのか)
視線の先に、あかりがいる。
彼女は、脚本家としてそこに立っている。
──手の届かない場所に。
それでも。
(……待つだけじゃ、何も変わらない)
胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。



