恋のリハーサルは本番です

稽古場に、まだ台本の紙の匂いが残っている。
読み合わせの準備が進む中、
一つだけ、空席があった。
「……椎名は?」
誰かが、ぽつりと呟く。
演出家の佐藤が、短く答えた。
「今回の舞台には、出ない。本人の意思だ」
ざわ、と空気が揺れた。
蓮は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきしんだ。
(……辞退、したんだ)
分かっていたはずなのに。
覚悟していたはずなのに。
それでも、心は追いつかない。



台本を開いても、文字が頭に入ってこない。
美咲が座るはずだった場所。
何度も視線が、そこへ向かう。
(俺は……何を失って、何を守ったんだ)
答えは出ない。
ただ、後悔と安堵が混ざった、曖昧な感情だけが残る。


あかりは、ノートパソコンの画面を見つめていた。
ヒロインの名前は、まだ仮名のまま。
(美咲さん……辞退したんだ)
それが“誰のため”なのか、考えないようにしていた。
考えた瞬間、自分が一番卑怯な立場にいる気がしたから。
「センセ」
声をかけられ、顔を上げる。
高峰翔だった。
「この脚本、面白い」
率直な言葉。
「ヒロインが未定なのも、逆にいい。
 誰が立つかで、物語が変わる」
あかりは、少しだけ困ったように笑う。
「……それ、褒めてます?」
「もちろん」
翔は一歩近づく。
「俺なら、
 この舞台、もっと“危ない恋”にできる」
その言葉が、妙に現実味を帯びて響いた。
あかりは、無意識に蓮の方を見る。
視線が、ぶつかった。
一瞬。
すぐに、逸らされる。
(……まだ、距離がある)
(美咲は、舞台を降りた)
(あかりさんは、舞台に立たない)
(じゃあ、俺は?)
待つことは、優しさなのか。
踏み出さないのは、逃げなのか。
台本の一文が、目に入る。
『選ばれなかったとしても、
 想った時間は、嘘にならない』
──でも。
(俺は……選びたい)
その気持ちだけが、はっきりしていた。



稽古場に、新しい一日が始まろうとしている。
ヒロイン不在の物語。
未完成の関係。
そして、誰も口にしない本音。