恋のリハーサルは本番です

稽古場は、まだ朝の静けさを残していた。
照明も落とされ、舞台の中央に立つ蓮の姿だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。
その背中に、あかりはゆっくりと近づいた。
「……蓮さん」
名前を呼ぶと、蓮が振り返る。
一瞬、驚いたように目を見開き、それから、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「おはようございます」
「おはよう……ございます」
ぎこちない挨拶。
それだけで、二人の間に流れる空気が張りつめる。



あかりは、ノートパソコンを胸に抱えたまま、視線を落とした。
「……これ」
少し迷ってから、蓮に差し出す。
「次の舞台の、プロットです。まだ……完成してません」
蓮は受け取り、画面を覗き込む。
タイトルもない。
ページ数も、ほんの数枚。
それなのに、最初の一行を読んだ瞬間、息が止まった。
『人は、
選ばない優しさで、
いちばん大切なものを失う』
「……」
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。
「これ……」
言葉を探しているのが、はっきり分かる。
「……あかりさんが、書いたんですよね」
「はい」
あかりは、逃げずに答えた。
「今の私の、正直な気持ちです」
蓮は、しばらく沈黙したまま画面を見つめていた。
役者として、台詞を読む目ではない。
一人の人間として、誰かの心を受け取る目だった。
「……俺」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「この一行、怖いです」
あかりの胸が、きゅっと締め付けられる。
「でも……」
蓮は、小さく笑った。
「すごく、刺さりました」
顔を上げ、まっすぐにあかりを見る。
「これ、本音ですよね」
「……はい」
「なら」
蓮は、はっきり言った。
「俺、この作品に出たい」
あかりが、目を見開く。
「え……?」
「演技とか、仕事とかじゃなくて」
蓮は、一歩近づいた。
「この台本に書かれてる“感情”を、
舞台の上で生きたい」
「それが……今の俺の答えです」
胸の奥が、熱くなる。
(こんなふうに、受け取られるなんて……)
あかりは、思わず視線を逸らした。
「……でも、これ」
「誰かを、傷つける話になるかもしれません」
「優しくない物語です」
蓮は、首を振った。
「優しさって、逃げることじゃない」
その言葉は、静かで、強かった。
「向き合うってことだと……俺は思います」


稽古場の入口。
そこに立つ人物に、二人は気づいていなかった。
椎名美咲。
ドア越しに、あかりと蓮のやり取りを見つめている。
(……そっか)
胸の奥が、少しだけ痛む。
でも、不思議と涙は出なかった。
(蓮、ちゃんと前に進んでる)
(なら……私も)
美咲は、そっと踵を返す。



あかりは、深く息を吸った。
「……蓮さん」
「私、この台本」
「ごまかさずに、最後まで書きます」
「きれいな答えにならなくても」
蓮は、うなずいた。
「大丈夫です」
「俺も……逃げません」
二人の間に、静かな覚悟が交わる。
それは、まだ恋とは呼ばない距離。
でも、確実に“物語”が動き出した瞬間だった。