夜。
あかりの部屋には、ノートパソコンの画面だけが灯っていた。
カーソルは、点滅したまま動かない。
書きかけの新作台本。
冒頭の一行だけが、何度も消され、書き直されている。
『人は、恋をすると──』
(……違う)
削除。
『人は、選ばなければならない──』
(これも、違う)
あかりは、キーボードから手を離した。
(書けない……)
これまで、どんな感情も物語にしてきた。
苦しさも、切なさも、誰かの痛みも。
でも──
自分自身の気持ちだけは、嘘をごまかせなくなっていた。
『逃げずに、向き合いたい』
昼間の蓮の声が、何度も頭に響く。
(……あんな顔で言われたら)
(脚本家失格だよ)
感情を排除して、作品を守る。
それが“大人の選択”だと信じていた。
でも今は分かる。
(感情を切り捨てて書いた台詞は、
もう……誰にも届かない)
あかりは、目を閉じた。
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前。
── 高峰 翔
一瞬、迷ってから通話に出た。
「……はい」
『起きてたか』
低く、落ち着いた声。
『返事、まだだったな』
あかりは、ゆっくり息を吸う。
「……翔さん」
「私、その話……」
『次の舞台』
『俺が主演、君が専属脚本』
『恋愛要素を前面に出した作品だ』
『条件は、悪くない』
事実だ。
チャンスとしては、破格だった。
『ただし』
翔は、少しだけ間を置いた。
『今の君じゃ、書けない』
あかりは、苦笑する。
「……分かってます」
『だから言っただろ』
『本気で誰かを想ってから書け』
『それが、誰でもいい』
—— その言葉が、胸に刺さった。
「……翔さん」
「ありがとうございます」
声は、静かだった。
「でも、その舞台……」
一瞬、言葉が詰まる。
「今の私は、受けられません」
沈黙。
電話越しに、翔が小さく息を吐くのが分かった。
『理由は?』
あかりは、正直に答えた。
「私……」
「逃げたまま、書くのは、もう無理なんです」
『……そうか』
意外にも、翔の声は穏やかだった。
『やっと、脚本家の顔になったな』
「……怒らないんですか?」
『怒る理由がない』
『俺は、君の“本気”が欲しかっただけだ』
翔は、続ける。
『それに』
『君が選ばなかったこと自体が、
もう答えだ』
『後悔するなよ』
「……はい」
『でも』
翔は、最後にこう言った。
『選ぶってのは、
失う覚悟も含めてだ』
通話が切れる。
あかりは、スマホを胸に抱いた。
(……失う覚悟)
(私、もう)
ノートパソコンに向き直る。
カーソルが、まだ点滅している。
あかりは、ゆっくりと打ち込んだ。
『人は、
選ばない優しさで、
いちばん大切なものを失う』
指が、震えている。
でも、止まらなかった。
(……これが)
(今の、私の本音)
翌朝。
稽古場に入ると、蓮が一人、舞台に立っていた。
台本を手に、声を出さずに口を動かしている。
(……蓮さん)
あかりは、足を止める。
彼は、まだこちらに気づいていない。
その背中を見つめながら、あかりは思う。
(もう、逃げない)
(書くことも、
気持ちも)
ゆっくり、一歩を踏み出した。
あかりの部屋には、ノートパソコンの画面だけが灯っていた。
カーソルは、点滅したまま動かない。
書きかけの新作台本。
冒頭の一行だけが、何度も消され、書き直されている。
『人は、恋をすると──』
(……違う)
削除。
『人は、選ばなければならない──』
(これも、違う)
あかりは、キーボードから手を離した。
(書けない……)
これまで、どんな感情も物語にしてきた。
苦しさも、切なさも、誰かの痛みも。
でも──
自分自身の気持ちだけは、嘘をごまかせなくなっていた。
『逃げずに、向き合いたい』
昼間の蓮の声が、何度も頭に響く。
(……あんな顔で言われたら)
(脚本家失格だよ)
感情を排除して、作品を守る。
それが“大人の選択”だと信じていた。
でも今は分かる。
(感情を切り捨てて書いた台詞は、
もう……誰にも届かない)
あかりは、目を閉じた。
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前。
── 高峰 翔
一瞬、迷ってから通話に出た。
「……はい」
『起きてたか』
低く、落ち着いた声。
『返事、まだだったな』
あかりは、ゆっくり息を吸う。
「……翔さん」
「私、その話……」
『次の舞台』
『俺が主演、君が専属脚本』
『恋愛要素を前面に出した作品だ』
『条件は、悪くない』
事実だ。
チャンスとしては、破格だった。
『ただし』
翔は、少しだけ間を置いた。
『今の君じゃ、書けない』
あかりは、苦笑する。
「……分かってます」
『だから言っただろ』
『本気で誰かを想ってから書け』
『それが、誰でもいい』
—— その言葉が、胸に刺さった。
「……翔さん」
「ありがとうございます」
声は、静かだった。
「でも、その舞台……」
一瞬、言葉が詰まる。
「今の私は、受けられません」
沈黙。
電話越しに、翔が小さく息を吐くのが分かった。
『理由は?』
あかりは、正直に答えた。
「私……」
「逃げたまま、書くのは、もう無理なんです」
『……そうか』
意外にも、翔の声は穏やかだった。
『やっと、脚本家の顔になったな』
「……怒らないんですか?」
『怒る理由がない』
『俺は、君の“本気”が欲しかっただけだ』
翔は、続ける。
『それに』
『君が選ばなかったこと自体が、
もう答えだ』
『後悔するなよ』
「……はい」
『でも』
翔は、最後にこう言った。
『選ぶってのは、
失う覚悟も含めてだ』
通話が切れる。
あかりは、スマホを胸に抱いた。
(……失う覚悟)
(私、もう)
ノートパソコンに向き直る。
カーソルが、まだ点滅している。
あかりは、ゆっくりと打ち込んだ。
『人は、
選ばない優しさで、
いちばん大切なものを失う』
指が、震えている。
でも、止まらなかった。
(……これが)
(今の、私の本音)
翌朝。
稽古場に入ると、蓮が一人、舞台に立っていた。
台本を手に、声を出さずに口を動かしている。
(……蓮さん)
あかりは、足を止める。
彼は、まだこちらに気づいていない。
その背中を見つめながら、あかりは思う。
(もう、逃げない)
(書くことも、
気持ちも)
ゆっくり、一歩を踏み出した。



