恋のリハーサルは本番です

千秋楽から、三日後。

劇場ではなく、
小さな稽古場に、再び人が集まり始めていた。

折り畳み椅子。
長机。
配られたばかりの、白い台本。

その表紙には、まだ仮題が印字されている。

──『(仮)恋の、その先』

空気は、初日の稽古特有の、少しだけ張りつめた静けさ。




「じゃあ、始めようか」

演出家・佐藤が言う。

その隣には、劇団責任者の神埼。
そして、机の端には──水無月あかり。

ノートパソコンを開き、
だが、今日はまだ画面を見ていない。

(……ここから、また始まるんだ)

脚本家としての顔。
でも同時に、ひとりの“当事者”としての心。

その両方を抱えたまま、
あかりは静かに座っていた。




桜井蓮は、台本を手に、真剣な表情で席につく。

その隣には、椎名美咲。

以前とは違い、
彼女の背筋はまっすぐで、視線も前を向いている。

そして──

「……久しぶり」

低い声でそう言ったのは、高峰翔だった。

蓮は一瞬だけ視線を上げる。

「……お久しぶりです」

張り合うような空気はない。
だが、互いに意識していることは、否定できなかった。

(次の舞台は、ここからだ)




「じゃあ、読み合わせ入ります」

佐藤の声で、空気が切り替わる。

最初の台詞。

蓮の声が、稽古場に響く。

「――君と出会ってしまったことが、
 たぶん、全部の始まりだった」

その瞬間。

あかりの指が、無意識に止まる。

(……この台詞)

まだ推敲前のはずなのに、
どこか、自分の心に近すぎる。

続く台詞を読む、美咲。

「それでも、後悔はしていない」

淡々としているのに、芯がある。

(美咲……)

あかりは、胸の奥でそっと呟いた。



一通り終わり、
稽古場に拍手はない。

それが、読み合わせ。

「……いいね」

佐藤が言った。

「感情を作りすぎてない。
 これから、積み上げられる芝居だ」

神埼も頷く。

「今回、挑戦的だな。
 前作より、ずっと“素”が出る」

その言葉に、蓮は台本を見つめたまま、静かに息を吐いた。

(……また、始まった)




稽古が終わり、人がばらける。

あかりは、荷物をまとめながら、蓮に声をかけた。

「……蓮さん」

「はい」

二人の間に、少しだけ間がある。

でも、それはもう、怖い沈黙ではない。

「この台本……」

あかりは言葉を探す。

「まだ、途中です」

「書きながら、変わると思います」

蓮は、静かに頷いた。

「……それでいいと思います」

「俺も、演じながら変わると思うので」

視線が、ほんの一瞬だけ交わる。

言わないこと。
言えないこと。

それでも、
同じ舞台に立つという選択だけは、はっきりしていた。




美咲は、少し離れたところでその様子を見ていた。

(……もう、嫉妬じゃない)

(これは、見届ける気持ちだ)

翔は、腕を組みながら、あかりの背中を見る。

(……やっぱり、簡単にはいかないか)

それでも、口元には微かな笑み。




読み合わせ。

それは、
まだ何者にもなっていない物語。

でも同時に──
もう、嘘をつけない物語の始まり。

あかりは、ノートパソコンを開いた。

新しいページ。

カーソルが、静かに点滅する。

(……今度こそ)

(逃げない)

(役も、言葉も、恋も)

ゆっくりと、最初の一文を打ち込んだ。