翌朝、瑠奈は早く目を覚ました。
雨は止んでいたが、空はまだ薄い雲に覆われている。
カーテンを開けると、庭の紫陽花が静かに濡れていた。

昨日の出来事が、胸の奥でまだ重く響いている。
悠真の顔、背を向けた姿、冷たく響いた「もういい」の声。
思い出すたびに、呼吸が浅くなった。

(ちゃんと話せばよかった。
 泣いた理由も、あの時の想いも……全部、伝えればよかったのに)

机の上には、昨日から開きっぱなしのノートがあった。
“強くならなきゃ”と書かれた文字が、今は痛い。
瑠奈はゆっくりペンを取る。

白い便箋を一枚、静かに広げた。



「手紙」

悠真くんへ

ごめんなさい。
あの時、何も言えなかったのは、
言葉にしたら泣いてしまいそうだったからです。

私は、あなたが誰かに優しくするのを見ると
どうしようもなく苦しくなるのに、
それでも、あなたが笑っていると嬉しいんです。

どうして、こんな気持ちになるのか自分でもわからなくて、
だから、逃げてしまった。

本当は、あの日の“光の庭”の約束を、
ずっと信じていました。

――四人で、ずっと離れないって。

でも、たぶん、私が最初に離れてしまったんだと思います。

どうか、もう私のことを気にしないでください。
あなたには、あなたの未来があります。
私も、もう少し強くなりたい。

    桐山瑠奈



書き終えた瞬間、涙が一粒、便箋に落ちた。
その跡が小さな滲みになって、文字の一部を曖昧にした。

封筒に入れて、名前を書こうとして――手が止まる。
「一条悠真」の文字を最後まで書けなかった。



放課後。
下駄箱の前で、彼の靴箱に手紙を入れようとして、
瑠奈は立ち止まった。

誰もいない昇降口。
傘立てには、昨日見たままの黒い傘が残っている。

(これを入れたら、もう戻れない気がする……)

ほんの一瞬、迷って、手を引いた。
代わりに、手紙を鞄の奥にしまい込む。

“沈黙”を選んだ自分に、心の奥で小さな声が囁いた。

「また、何も言えなかったね」



その夜。
拓也からメッセージが届いた。

――『明日、少し時間ある?』

短い文面に、迷いがにじむ。
瑠奈は返信を打たず、窓の外を見た。
月の光が雲間から差し込み、机の上の便箋を照らしている。

封をされないままの手紙が、
微かな風に揺れた。



数日後。
悠真の机の中には、
一枚の桜の花びらが落ちていた。

誰のものかもわからぬまま、
彼はそれを拾い上げ、ぼんやりと見つめた。

その花びらの色が、
瑠奈の想いの欠片だと知るのは、
ずっと、ずっと後のことだった。