翌朝、空は鈍色の雲に覆われていた。
校門をくぐった瞬間、ぽつり、と頬に冷たい滴が落ちる。
瑠奈は小さく肩をすくめ、傘を差した。

昨日の涙の跡は、まだ心の奥で乾かないままだった。
眠れなかった夜。
何度も思い出した――
拓也の腕の中で、こぼれたあの言葉。

(……どうしてあんなこと、言ってしまったんだろう)

それでも、どこか少しだけ楽になっていた。
胸の奥にたまっていた苦しさが、少しだけ流れたような気がした。



教室に着くと、麗華が窓際に立っていた。
傘を閉じる悠真を見つめながら、髪を整えている。

「ねぇ悠真くん、午後の会議、資料見てくれる?」
「うん。あとで持ってくるよ」
「ありがと」
いつものように笑い合う二人を見て、
瑠奈は何も言わず席に座った。

授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
それでも胸のざわめきは止まらない。

(本当に、これでいいの……?)



放課後。
雨は本降りになっていた。
傘を持たない生徒たちが校舎の軒下で足止めを食らう中、
瑠奈はひとり、静かに昇降口へ向かっていた。

その時、
「桐山!」
背後から声がした。

振り返ると、悠真が駆けてくる。
髪とシャツが少し濡れている。

「傘、持ってないんだ。相合傘、してもいい?」
「え……」
瑠奈の手が小さく震えた。
(……なんで、今、そんなことを)

悠真は何も気づかない様子で笑う。
「行こ。風邪引くぞ」

並んで歩く。
狭い傘の下、肩が触れそうなほど近い。
雨音だけが二人を包んでいた。



「昨日、遅くまで残ってただろ」
悠真が口を開いた。
「見たんだ。拓也と……話してたの」
瑠奈の呼吸が止まる。

「……見てたの?」
「ああ。泣いてたみたいだったから、声かけようとしたけど……やめた」
「なんで?」
「俺が行ったら、もっと泣かせる気がした」


「泣いた理由を聞く勇気が、どうしても出なかった。
彼女の涙の理由を知った瞬間、自分の何かが壊れてしまいそうで。」

雨の音が強くなる。
傘の縁を伝う雫が、ぽとりと地面に落ちた。

「……悠真くん、優しいね」
「優しい? 俺、そんなつもりないけど」
「ううん。そういうとこ……昔から変わらない」

少し沈黙が流れた。
風が吹き、傘の中にふたりの髪が重なる。

「……なぁ、桐山」
「なに?」
「俺さ、あの噂、ちゃんと否定するから」
「え?」
「麗華のこと、好きとかじゃない。
 あいつはいい友達だし、助けてもらってるけど……そういう意味じゃない」

言葉を聞いた瞬間、瑠奈の胸が静かに震えた。
(ああ――やっぱり、彼は真っすぐなんだ)

だけど同時に、
その“否定”が彼女の名前を出さないことにも気づいてしまう。

(私のことは……どう思ってるの?)

聞きたくても、声にならない。
雨の音が、それをすべてかき消していく。



「桐山、俺さ――」
悠真が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「なに?」
「……いや。なんでもない」
彼は苦笑して、傘を少し傾けた。
雨が自分の肩にかかる。

「風、強いな。気をつけろよ」
「悠真くん、濡れてるよ」
「大丈夫」

その一言に、瑠奈の目の奥が滲んだ。

「どうして、いつも自分ばっかり我慢するの」
「え?」
「優しさって、時々ずるいよ」

悠真が目を見開く。
けれど瑠奈はもう、それ以上何も言えなかった。

傘の外、雨粒が頬を伝う。
涙なのか雨なのか、自分でもわからない。



校門に着く頃には、雨は少し弱まっていた。
信号待ちのあいだ、瑠奈はふと口を開いた。

「……ありがとう」
「え?」
「一緒に歩いてくれて」
「当たり前だろ」

その何気ない一言が、瑠奈の胸に深く残った。

信号が青に変わり、二人はゆっくりと歩き出す。
傘の下、わずかな距離――
けれどその距離の中に、確かに“約束”のような温もりがあった。

雨上がりの空から、一筋の光が差す。
まるで未来を照らすように。



その夜、瑠奈は日記を開いた。
《今日、雨の中で一緒に歩いた。
 何も言えなかったけど――それでよかった気がする。
 あの沈黙が、きっと私たちの“誓い”だった》

ページの隅に、雨のしずくが小さく落ちた。
消えそうな文字が、光の下でかすかに輝いていた。