午前九時。
いつも通り始まるはずだった朝の会議が、
一枚の紙切れによって静かに揺らぎはじめていた。
桐山ホールディングス広報部。
書類の束の上に置かれていたのは、
匿名で送られた内部メモ――
《過去報道・関係者再調査の必要性について》
担当者が顔を見合わせる。
内容は、先月の報道騒動に関する詳細な内部資料。
そしてその文中に、
“常務・一条悠真”と“主任・桐山瑠奈”の名が
再び並んでいた。
「……誰がこんなものを?」
課長が低く唸る。
「記者宛てに同じ内容の匿名メールが届いてる。
火種になるぞ。すぐに会長に報告しろ」
そのやり取りを、
遠くのデスクから麗華は静かに聞いていた。
顔には一切の表情を出さず、
ただ視線をモニターに落とす。
(まさか、あのメモが――)
彼女が“社内整理用”として提出した草案。
一部に機密情報が含まれていたため、
共有リストから削除したはずだった。
だが、それがどこかでコピーされ、
外部に漏れたのだ。
(意図していない……でも、
あの二人の名前が、また世間に出ることになる)
胸の奥で何かが冷たく沈む。
同じ頃、役員フロア。
悠真は秘書から書類を受け取る。
「……また、記事ですか」
「はい。ネットニュースに再掲載されました。
“疑惑の再燃”という見出しです」
悠真はページをめくる。
淡々とした文体。だが内容は酷く悪意を帯びていた。
“再発した内部リーク。
企業イメージの低下が懸念される中、
常務と特定社員の過去関係が再び注目を集めている。”
悠真は一瞬目を閉じた。
「……もう二度と、彼女の名前を記事で見たくなかったのに」
指先が、ページの端を強く押さえる。
そこへノックの音。
「常務、桐山主任がいらっしゃいました」
扉の向こうに立っていた瑠奈の表情は、
静かで、決意を含んでいた。
「見ました。記事のこと」
「俺が処理する。今回は、すぐに動く」
「いいえ。今度は、私も話します」
悠真が顔を上げる。
「沈黙は、もういりません。
誤解を生むくらいなら、
自分の言葉で説明したい」
その瞳には、かつて泣いていた少女の面影はなかった。
「……強くなったな」
「あなたが教えてくれたんです。
“逃げないで話す”って」
悠真は息を整え、ゆっくりと頷く。
「わかった。君の言葉で会見しよう。
俺も隣で支える」
午後三時。
記者会見の準備が進む中、
別室で麗華はモニターを見つめていた。
彼女の指は、ペンを握りしめたまま動かない。
(こんな形で、また彼女が傷つくなんて……)
心の奥に、
自分が作った“火種”の影がはっきりと浮かぶ。
誰かを傷つけるつもりではなかった。
ただ――
“消せない嫉妬”が、
ほんの少しだけ言葉の端に滲んでいたことは、
否定できなかった。
会見場。
カメラのフラッシュが光る。
瑠奈は、深呼吸を一度して、
マイクの前に立った。
「このたびは、私たちの言動で誤解を招いたことをお詫びします。
けれど、事実とは異なる内容が多くあります。
私たちは、誠実に職務を果たしてまいりました」
澄んだ声が、会場を包む。
その隣で、悠真が短く言葉を続ける。
「沈黙が誤解を生むなら、
言葉で正す責任がある。
――それが、私たちの選んだやり方です」
その瞬間、
麗華はモニターの前で、
初めて深く息を吐いた。
(あの人たちは、ちゃんと光の中で戦ってる。
私は、影のままだ……)
ペン先が落ちる音が、机に響いた。
彼女は画面を閉じ、立ち上がる。
午後の光が会議室の窓を満たしていた。
人の心がどれほど静まっても、
噂の影は完全には消えない。
だが、真実の言葉は、
少なくとも“火種”を燃やし尽くすだけの力を持っていた。
麗華は窓際で小さく呟いた。
「沈黙が罪なら――私も、語らなきゃいけないわね」
その声は弱く、
けれど確かに、次の章への扉を開く響きを持っていた。
いつも通り始まるはずだった朝の会議が、
一枚の紙切れによって静かに揺らぎはじめていた。
桐山ホールディングス広報部。
書類の束の上に置かれていたのは、
匿名で送られた内部メモ――
《過去報道・関係者再調査の必要性について》
担当者が顔を見合わせる。
内容は、先月の報道騒動に関する詳細な内部資料。
そしてその文中に、
“常務・一条悠真”と“主任・桐山瑠奈”の名が
再び並んでいた。
「……誰がこんなものを?」
課長が低く唸る。
「記者宛てに同じ内容の匿名メールが届いてる。
火種になるぞ。すぐに会長に報告しろ」
そのやり取りを、
遠くのデスクから麗華は静かに聞いていた。
顔には一切の表情を出さず、
ただ視線をモニターに落とす。
(まさか、あのメモが――)
彼女が“社内整理用”として提出した草案。
一部に機密情報が含まれていたため、
共有リストから削除したはずだった。
だが、それがどこかでコピーされ、
外部に漏れたのだ。
(意図していない……でも、
あの二人の名前が、また世間に出ることになる)
胸の奥で何かが冷たく沈む。
同じ頃、役員フロア。
悠真は秘書から書類を受け取る。
「……また、記事ですか」
「はい。ネットニュースに再掲載されました。
“疑惑の再燃”という見出しです」
悠真はページをめくる。
淡々とした文体。だが内容は酷く悪意を帯びていた。
“再発した内部リーク。
企業イメージの低下が懸念される中、
常務と特定社員の過去関係が再び注目を集めている。”
悠真は一瞬目を閉じた。
「……もう二度と、彼女の名前を記事で見たくなかったのに」
指先が、ページの端を強く押さえる。
そこへノックの音。
「常務、桐山主任がいらっしゃいました」
扉の向こうに立っていた瑠奈の表情は、
静かで、決意を含んでいた。
「見ました。記事のこと」
「俺が処理する。今回は、すぐに動く」
「いいえ。今度は、私も話します」
悠真が顔を上げる。
「沈黙は、もういりません。
誤解を生むくらいなら、
自分の言葉で説明したい」
その瞳には、かつて泣いていた少女の面影はなかった。
「……強くなったな」
「あなたが教えてくれたんです。
“逃げないで話す”って」
悠真は息を整え、ゆっくりと頷く。
「わかった。君の言葉で会見しよう。
俺も隣で支える」
午後三時。
記者会見の準備が進む中、
別室で麗華はモニターを見つめていた。
彼女の指は、ペンを握りしめたまま動かない。
(こんな形で、また彼女が傷つくなんて……)
心の奥に、
自分が作った“火種”の影がはっきりと浮かぶ。
誰かを傷つけるつもりではなかった。
ただ――
“消せない嫉妬”が、
ほんの少しだけ言葉の端に滲んでいたことは、
否定できなかった。
会見場。
カメラのフラッシュが光る。
瑠奈は、深呼吸を一度して、
マイクの前に立った。
「このたびは、私たちの言動で誤解を招いたことをお詫びします。
けれど、事実とは異なる内容が多くあります。
私たちは、誠実に職務を果たしてまいりました」
澄んだ声が、会場を包む。
その隣で、悠真が短く言葉を続ける。
「沈黙が誤解を生むなら、
言葉で正す責任がある。
――それが、私たちの選んだやり方です」
その瞬間、
麗華はモニターの前で、
初めて深く息を吐いた。
(あの人たちは、ちゃんと光の中で戦ってる。
私は、影のままだ……)
ペン先が落ちる音が、机に響いた。
彼女は画面を閉じ、立ち上がる。
午後の光が会議室の窓を満たしていた。
人の心がどれほど静まっても、
噂の影は完全には消えない。
だが、真実の言葉は、
少なくとも“火種”を燃やし尽くすだけの力を持っていた。
麗華は窓際で小さく呟いた。
「沈黙が罪なら――私も、語らなきゃいけないわね」
その声は弱く、
けれど確かに、次の章への扉を開く響きを持っていた。

