朝の社内は、いつもと変わらぬざわめきに満ちていた。
パソコンの起動音、電話のベル、
そして、人々が交わす何気ない挨拶。

だが――その中に、自分の名が混ざるたび、
来栖麗華は、無意識にペンの先を強く握っていた。

「……聞いた? 桐山主任、復帰したんですって」
「また常務と一緒に仕事してるらしいわよ」

その言葉の破片が、背中に突き刺さるように聞こえる。
(やっぱり、そうなるのね……)

机の上に置かれたスマートフォンが光る。
ニュースアプリの通知には、
――《一条グループ、新プロジェクト始動》
という見出し。

記事の写真には、
笑顔で並ぶ悠真と瑠奈の姿があった。



麗華は、手にしていたコーヒーカップをそっと置いた。
小さな音が、静かな執務室に響く。
(彼の隣にいるのは、私ではないのね)

昔からわかっていた。
彼の視線が自分を通り越して、
誰かを探していることくらい――。

それでも、“諦める”という言葉だけは、
最後まで飲み込めなかった。

「麗華さん?」
部下の声に、彼女は微笑をつくった。
「ごめんなさい、少し考え事をしていたの」
「昨日の会議、すごかったですね。一条常務、桐山主任と息がぴったりで」

その言葉に、胸の奥がわずかに疼く。
「そうね……あの二人は、よく噛み合うもの」
「やっぱり、お似合いですよね」

笑顔を保ったまま、
麗華は指先で紙の端を掴み、破れそうになるほど強く押さえた。



会議室の窓から見える街並みは、朝の光にきらめいている。
かつて自分が立っていたはずの“隣”が、
もう二度と戻らない場所になっていることを、
理屈ではなく、痛みで理解する。

(でも――終わりじゃない。
 私が沈黙している限り、
 あの人たちの未来はまだ“噂”の中にある)

彼女は、ゆっくりとペンを走らせた。
《市場調査報告書/対外評価動向》――
その資料の下書き欄に、小さくメモを残す。

“広報対応:過去記事に関するフォローアップ提案”

その提案が、後にどんな波紋を生むのか。
彼女自身にも、まだ分からない。
ただ、心のどこかに――
“噂”という名の静かな刃をもう一度握りしめた感覚があった。



昼休み、屋上のベンチ。
冷たい風が頬を撫でる。
空は晴れているのに、どこか遠く霞んで見えた。

(瑠奈さん……)
心の中で、その名前を呟く。
嫉妬と憧れが混じった、不思議な響き。

「あなたのようには、なれない」
「でも――だからこそ、見届ける」

彼女は唇をかすかに噛み、
眼下に広がる街を見下ろした。

まるで、風の中にまだ消えきらない“噂”が漂っているように感じた。



“沈黙が終わっても、人の心までは静まらない。”

誰の言葉でもない、
けれど、その一文が頭の中に残った。

麗華は立ち上がる。
長い髪を束ね、表情を整える。
午後の会議が待っている。

「……まだ、終わらせない」

その声は、誰にも聞かれないほど小さく、
しかし確かに彼女自身の心を貫いていた。