夜の街は、静かに濡れていた。
ガラス越しの街灯が滲み、道路に光の粒が散る。
ホテルラウンジの奥、窓際の席で瑠奈は小さく息を整えた。
照明に照らされたテーブルの向こう、悠真が座っている。
黒いスーツに淡いシャツ――あの頃より少し痩せ、
けれど目の奥の光は、昔よりも柔らかくなっていた。

「来てくれて、ありがとう」
「呼んでくださって、ありがとうございます」

二人の声が重なる。
けれど、そこに気まずさはなかった。
紅茶の香りが静かに漂う。



少し間を置いて、瑠奈が口を開いた。

「……あの日、あなたの記者会見、見ました」
「そうか」
「“誤解を生んだ責任は自分にある”って言ってましたね」
「それしか言えなかった。
 本当は“守れなかった”って言いたかったけど、
 それも結局、言い訳だと思って」

瑠奈は微笑んだ。
「いいえ。言葉にしただけで、十分です。
 あなたが黙ってしまわなかったことが、何より嬉しかった」

悠真の目が少しだけ見開かれた。
「……君は、強くなったな」
「あなたが沈黙を破ってくれたから、
 私も“声を出していい”と思えるようになったんです」



外では雨が小さく音を立てていた。
そのリズムが、まるで二人の呼吸を整えるかのように続く。

「拓也に会ったと聞いた」
「ええ。今日、お会いしました」
「彼は何か言ってたか」
「“泣いたら黙っていない”って」
「……彼らしいな」
「でも、私もう泣きません。泣く前に話すって決めたから」

悠真は静かに頷く。
「俺も。沈黙を優しさに隠すのは、もうやめた」
「それが、私たちの約束ですね」

二人の間に灯るランプの光が、
まるで温度を持つように柔らかく揺れた。



「瑠奈」
「はい」
「俺はずっと、自分の不器用さに負けてきた。
 誰かを想うより、傷つけないことを選んでた。
 けど、君を失って分かった。
 ――沈黙は守るものじゃなく、奪うものなんだ」

「奪う?」
「うん。君の言葉も、君の笑顔も、
 全部、俺の沈黙が奪ってた」

瑠奈はそっと視線を上げた。
「……取り戻せますよ」
「え?」
「今こうして話してるから。
 私たちはもう、奪う沈黙じゃなく、“育てる言葉”の方にいるんです」

悠真の胸に、何かが静かに落ちた。
その音は外の雨よりも優しかった。



「これから、いろんなことがあると思います。
 噂も、過去も、誤解も消えないかもしれない。
 でも――私、黙らずにあなたと歩きたい」

瑠奈の言葉に、悠真は笑った。
その笑顔は、初めて出会った頃よりもずっと穏やかだった。

「俺も、言葉で君を選び続けるよ。
 たとえ、うまく言えなくても」

外の雨が、少しずつ弱まっていく。
窓を伝う雫が光を反射し、
街の夜がゆっくりと輪郭を取り戻していった。



「この雨が止んだら、少し歩こう」
「ええ。……並んで」
「並んで」

二人の指が、テーブルの上でそっと触れた。
もうためらいはなかった。

かつての“沈黙”は、
いま“穏やかな間(ま)”へと変わっていた。