六月の光は、あの春よりも白い。
桐山学園の中庭――“光の庭”。噴水の縁は薄く苔をまとい、若葉の影が水面へ揺れて落ちる。
瑠奈は、手にした封筒を指先で確かめてから、ゆっくりと息を吐いた。二通――黄ばんだ五年前の手紙と、昨夜書いた短い手紙。

「桐山――」

振り向くと、陽を背にした悠真が立っていた。黒のスーツの肩に、葉陰の光が粒になって乗る。
「来てくれて、ありがとう」
「私のほうこそ」

二人は噴水の縁に腰を下ろした。水が跳ね、光が砕け、頬に涼しさが散る。

「記事、読みました」
「遅くなった。俺の言葉で否定したかった」
「ありがとうございます。でも……」

一拍、風の音。
瑠奈は自分の声を、まっすぐに置いた。

「“守る”じゃなく、“並ぶ”でいてください」
悠真は短く目を伏せ、ゆっくり頷く。
「――わかった。並ぶ。もう誤魔化さない」

瑠奈は封筒を二つ、彼の手の上に置いた。
「これが“あの時の私”。こっちは“今の私”。……でも、今日、紙より先に、私の口で話します」

蝉にはまだ早い初夏の空気に、噴水の水音だけが高く澄む。

「高校の最後の日、私が泣いた理由を、あなたは聞かなかった。ずっと苦しかった。そして、私も言わなかった。怖かったから。あなたが笑わなくなるのが、怖かったから。――沈黙を選んだのは、私も同じです」

悠真の喉が、ごくりと動く。
「俺は、壊すのが怖かった。優しさのふりで逃げた。……ごめん」
「いまは?」
「逃げない。約束する」

“約束”という音が、水面へ落ちて波紋になった。
瑠奈は息を整え、小さく笑う。

「私も約束します。黙って相手に委ねない。下手でも、言葉で伝える」
「俺も言う。誤魔化さない」

短い沈黙が、もう痛くなかった。呼吸を合わせるための間だけが、二人の間にある。

「……拓也くんのことも、私から話します」
「ああ。俺からも話すべき人がいる。仕事のことも、過去のことも、順番を間違えない」

庭の端でジャスミンが匂い、風が方角を変える。
瑠奈は五年前の封筒を彼へ戻した。
「これは、今夜ひとりで読んでください。未熟な私の沈黙です。捨てないで――私がどこから来たのか、忘れないために、あなたに預けたい」
「大事にする」

昨夜の白い封筒には指を添えただけで、そっと自分の側へ引いた。
「これは保留。今日、言えたから、紙に頼らなくていい」

「……桐山」
「はい」
「“桐山”って呼ばない練習をしてもいい?」
「……はい」
「――瑠奈」

たった二音が、水と光を連れて胸に届く。
返す言葉が見つからなくて、小指を差し出した。
「約束。逃げない。言う。並んで歩く」
「約束」

小指が触れ合い、ふっと笑いがこぼれる。
噴水の縁に重なった影が、風で揺れて形を変えた。

アーチの向こうで靴音が止み、ふたりが振り向くと、見知らぬ卒業生の二人連れが校舎へ消えていった。ただの偶然――それでも、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。(避けられない相手と向き合うときが来る)

「戻ろうか」
「ええ」

立ち上がる。歩幅を二度、三度合わせる。
沈黙は、もう“距離”ではなく“合図”だった。

校門の影まで来て、足が揃う。
「来週、プロジェクト再編の前に、時間を」
「ください。仕事の話も、私たちの話も、同じテーブルで」

「また」
「また」

離れていく二つの影は、別の方向へ伸びながら、同じ六月の光に照らされていた。
瑠奈は振り返って、庭を目に焼きつける。(ここから、やり直す。手紙じゃなく、声で)

ポケットの中で、未送の通知が震えた。
――《西園寺拓也:東京に戻ったって聞いた。話せるか》
画面を伏せ、深く息を吸う。

「順番を、間違えない」

透明な水音が、答えのように高く跳ねた。