朝の街は、まだ薄い霧に包まれていた。
ビルの谷間を風が抜け、
白い息が、冬の名残を残して漂う。
桐山ホールディングスの正面玄関。
社員たちが行き交う中で、
瑠奈は小さなスーツケースを引いて立っていた。
胸ポケットには、退職願――ではなく、
「休職届」。
(戻る場所があるだけ、幸せなのかもしれない)
そう思っても、心の奥は冷たい。
会社に向けて一礼したあと、
エントランスを出ようとしたその瞬間、
後ろから声がした。
「桐山!」
振り返る。
一条悠真が駆けてきた。
息を切らし、ネクタイが少し乱れている。
「待ってくれ。行くって聞いた」
「……はい」
「話がしたい」
「もう、話してはいけないと思います」
彼はその場に立ち尽くした。
風が吹き、二人の間を抜けていく。
「昨日、君に電話した」
「出られませんでした」
「……だろうな」
悠真は苦く笑う。
「記事の件、すぐに訂正文を出す。
あれは誤解だって、俺が説明する」
「そんなことしたら、あなたの立場が危うくなります」
「関係ない。俺が守る」
その言葉に、瑠奈は小さく首を振った。
「もう守らないでください。
守られるたびに、私は何も言えなくなっていくんです」
彼の表情が、かすかに歪む。
「俺は――ただ、君を」
「愛してる、って言ったら、
また黙ってしまうんでしょう?」
静かな声だった。
けれどその一言で、
悠真の喉が震えた。
「……君は強くなったな」
「違います。
強く見せないと、また泣いてしまうだけです」
二人の間を通り過ぎていく社員たちが、
足早に視線を逸らす。
その沈黙の空気が、
まるで世界そのものが二人の別れを見守っているようだった。
「行かないでほしい」
「行きます」
即答だった。
瑠奈の声は震えていなかった。
「私がここにいる限り、
あなたはきっとまた私を“守ろうとする”。
でも、もう私は守られたくない。
――自分の声で、立てるようになりたいんです」
悠真の目に、光が揺れた。
彼は一歩踏み出したが、
その距離を詰めることはできなかった。
「じゃあ、ひとつだけ聞かせてくれ」
「……なんですか」
「今でも俺のこと、嫌いじゃない?」
少しの沈黙。
そして、微笑。
「嫌いになれたら、
こんなに苦しくないですよ」
その答えに、悠真は何も言えなかった。
「ありがとう」
瑠奈は深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとう」
彼女が背を向けた瞬間、
朝日が差し込んだ。
白い光が、二人の影をゆっくりと引き離していく。
悠真はただ、その背中を見つめ続けた。
何も言わず、何もできず。
“沈黙”だけが、ふたりの最後の言葉になった。
瑠奈が角を曲がる。
見えなくなった瞬間、
悠真のポケットの中で、
携帯が小さく震えた。
画面には、未送信のメッセージ。
「もう一度会いたい」
指が止まる。
――送れなかった。
数時間後。
オフィスの机の上、
悠真の視線がある一枚の封筒に止まった。
桐山瑠奈の字で、
「御礼」とだけ書かれた白い封筒。
中には短いメモが一枚。
“沈黙が、あなたの優しさを奪いませんように。”
その一文を読み終えたとき、
悠真は静かに目を閉じた。
窓の外には、再び小雨が降り始めていた。
ビルの谷間を風が抜け、
白い息が、冬の名残を残して漂う。
桐山ホールディングスの正面玄関。
社員たちが行き交う中で、
瑠奈は小さなスーツケースを引いて立っていた。
胸ポケットには、退職願――ではなく、
「休職届」。
(戻る場所があるだけ、幸せなのかもしれない)
そう思っても、心の奥は冷たい。
会社に向けて一礼したあと、
エントランスを出ようとしたその瞬間、
後ろから声がした。
「桐山!」
振り返る。
一条悠真が駆けてきた。
息を切らし、ネクタイが少し乱れている。
「待ってくれ。行くって聞いた」
「……はい」
「話がしたい」
「もう、話してはいけないと思います」
彼はその場に立ち尽くした。
風が吹き、二人の間を抜けていく。
「昨日、君に電話した」
「出られませんでした」
「……だろうな」
悠真は苦く笑う。
「記事の件、すぐに訂正文を出す。
あれは誤解だって、俺が説明する」
「そんなことしたら、あなたの立場が危うくなります」
「関係ない。俺が守る」
その言葉に、瑠奈は小さく首を振った。
「もう守らないでください。
守られるたびに、私は何も言えなくなっていくんです」
彼の表情が、かすかに歪む。
「俺は――ただ、君を」
「愛してる、って言ったら、
また黙ってしまうんでしょう?」
静かな声だった。
けれどその一言で、
悠真の喉が震えた。
「……君は強くなったな」
「違います。
強く見せないと、また泣いてしまうだけです」
二人の間を通り過ぎていく社員たちが、
足早に視線を逸らす。
その沈黙の空気が、
まるで世界そのものが二人の別れを見守っているようだった。
「行かないでほしい」
「行きます」
即答だった。
瑠奈の声は震えていなかった。
「私がここにいる限り、
あなたはきっとまた私を“守ろうとする”。
でも、もう私は守られたくない。
――自分の声で、立てるようになりたいんです」
悠真の目に、光が揺れた。
彼は一歩踏み出したが、
その距離を詰めることはできなかった。
「じゃあ、ひとつだけ聞かせてくれ」
「……なんですか」
「今でも俺のこと、嫌いじゃない?」
少しの沈黙。
そして、微笑。
「嫌いになれたら、
こんなに苦しくないですよ」
その答えに、悠真は何も言えなかった。
「ありがとう」
瑠奈は深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとう」
彼女が背を向けた瞬間、
朝日が差し込んだ。
白い光が、二人の影をゆっくりと引き離していく。
悠真はただ、その背中を見つめ続けた。
何も言わず、何もできず。
“沈黙”だけが、ふたりの最後の言葉になった。
瑠奈が角を曲がる。
見えなくなった瞬間、
悠真のポケットの中で、
携帯が小さく震えた。
画面には、未送信のメッセージ。
「もう一度会いたい」
指が止まる。
――送れなかった。
数時間後。
オフィスの机の上、
悠真の視線がある一枚の封筒に止まった。
桐山瑠奈の字で、
「御礼」とだけ書かれた白い封筒。
中には短いメモが一枚。
“沈黙が、あなたの優しさを奪いませんように。”
その一文を読み終えたとき、
悠真は静かに目を閉じた。
窓の外には、再び小雨が降り始めていた。

