朝、社内の空気が異様に重かった。
出社した瞬間、視線が刺さる。
いつもと変わらぬオフィスのはずなのに、
何かが確実に“変わってしまった”と肌で感じた。

瑠奈の机の上に、開かれた新聞のコピーが置かれていた。

“一条グループ常務、一部社員との親密関係か――再開発プロジェクトに波紋”

息が止まる。
記事には、彼の名前と共に「桐山ホールディングス女性社員」とだけ記されていた。
だが、誰のことかは明らかだった。

(どうして……)

頭の中が真っ白になる。
脳裏に浮かんだのは、昨日のあの会話。
――廊下の向こう、扉の影に立っていた麗華の姿。

まさか、と思った。
けれど“まさか”が現実だった。



数分後。
執務室のドアが開く音。
悠真が入ってきた。
いつもと同じスーツ姿。
けれど、表情は鋭く張りつめていた。

「見たか」
「はい……」
「俺が対応する。お前は何も言うな」
「でも――」
「いいか、沈黙していればいい。
 下手に反応すれば、余計に燃える」

(また、沈黙……)

心の奥で、何かが音を立てて崩れた。

「私、黙ってばかりで、何か変わりましたか?」
「これは俺の責任だ」
「責任なんて、もう聞きたくない!」

思わず声が震えた。
部屋の空気が一瞬止まる。

「あなたはいつも“守る”って言うけど、
 そのたびに、私の声は消されていくんです!」

悠真は何も言い返せなかった。
ただ拳を握りしめ、視線を逸らす。

「……全部終わったら話す」
「その“終わったら”が、いつ来るんですか」

沈黙。
長い、痛い沈黙。
彼の喉仏がわずかに動いたが、言葉は出なかった。



午後。
社内広報が発表を出した。

“記事内容について事実確認中。
関係者のプライバシーに関わるため、詳細は回答を控える。”

その一文が、まるで烙印のように感じられた。
“沈黙=認めたも同然”
――そう受け取られることを、瑠奈は知っていた。

廊下を歩くたび、視線がついてくる。
コピー機の前で、同僚たちの囁き声が聞こえた。

「桐山主任、あの件、本当なのかな」
「やっぱり、美人だもんね……」
「社長令嬢で、常務と……」

瑠奈は立ち止まることもできず、
ただ歩き続けた。
ヒールの音が、やけに大きく響く。



夕方。
重役会議のあと、父の秘書から呼び出された。

「……あなた、少し休みなさい」
「お父様の判断です」

その瞬間、
心が静かに折れた。

「――はい」

頭を下げるしかなかった。
それが、会社を守る唯一の方法だと思った。



夜。
自宅の部屋。
机の上に、あの“沈黙の手紙”が置かれている。
もう黄ばみ始めた紙の端を、そっとなぞる。

「どうか、もう私のことを気にしないでください」

五年前に書いた言葉が、
まるで今の自分に向けたもののように感じた。

携帯が震えた。
画面には「悠真」の名前。

けれど、瑠奈は取らなかった。
取れば、また沈黙に戻る気がした。

「もう、黙っていられない。
けれど――何を言えば、信じてもらえるんだろう」

涙が、一粒落ちた。
便箋の上で滲み、文字をゆっくりと溶かしていく。



翌朝。
新聞の見出しの下に、
小さく新しい一文が追加された。

“関係者の一部が、休職を申し出た模様”

名前は出ていなかった。
けれど、その一文が
“沈黙の代償”のすべてを語っていた。