午後の光がオフィスを照らす。
どこかざわついた空気。
コピー機の音、電話のベル、
それらのすべてが妙に遠く聞こえた。

瑠奈はデスクに座り、
何度も画面の通知を確認していた。
社内掲示板に、匿名で書き込みが出ている。

“常務と桐山主任、特別な関係らしい”
“夜遅くまで二人きり、って噂だよ”

一文一文が心を刺す。
“誰が”ではなく、“なぜ”――それが問題だった。

(……こんなこと、誰が)

心当たりが、
ひとりだけ、あった。



昼過ぎ。
会議室。

「一条常務、今お時間よろしいですか?」
麗華の声がした。
淡いピンクのブラウスに、落ち着いた口紅。
その笑顔の奥に、確かな計算が光っていた。

「昨日の件ですが……」
「もう処理した。必要以上に騒がないでくれ」
「そう。……でも、“沈黙”が誤解を生むこともありますよ」

悠真は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「あなたが黙っている間に、
 彼女がどんな目で見られているか――
 それ、分かってますか?」

一瞬、悠真の表情が強張る。

「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「ええ。
 あなたは優しい。
 でも、その優しさは時々、
 誰かを“救わない”の」

麗華は書類を置き、
ドアの方へ向かう。

「……あなたが守りたい人、
 その沈黙でまた泣かせないといいわね」

ドアが閉まる音が、会議室に響いた。

悠真は拳を握った。



午後四時。
プレゼン前の準備。
瑠奈はコピーをまとめていた。
そこに、同僚がそっと近づく。

「ねえ、桐山さん……」
「はい?」
「気にしない方がいいよ。みんな言ってるだけだから」
「……何を、ですか」
「一条常務のこと」

息が止まった。

同僚は気まずそうに視線を逸らす。
「ほら、麗華さんと常務、前から親しいって有名でしょ。
 でも最近は、あなたの名前も一緒に出てて……」

その瞬間、
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。



夕方。
廊下の突き当たり。
悠真が立っていた。

「桐山」
「……はい」
「少し話がある」

会議室に入ると、彼の表情は硬かった。
「この状況、どう思ってる?」
「どうって……」
「噂だ。放っておけない。
 俺の立場も、お前の立場も危うくなる」

「私のせいですか」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味ですか?」

沈黙。

瑠奈の声が震える。
「また、黙るんですね」
「……違う」
「いつもそう。
 何か起きるたびに“俺が悪い”“放っておけ”って。
 本当のことを言ってくれない。
 私、何を信じればいいんですか」

悠真は、言葉を失った。



外では、
灰色の雲が空を覆い始めていた。

「……俺を信じろ」
ようやく出た言葉は、
頼りなく震えていた。

「信じたい。
 でも――あなたの隣に立つのが麗華さんの姿ばかりで、
 私、もうどうすればいいか分からない」

その瞬間、ドアの向こうで人の気配がした。
ドアノブがわずかに動き、
誰かが廊下から立ち去る音。

――麗華だった。

ドアの隙間からこぼれた会話の断片が、
彼女の耳に確かに届いていた。

唇を噛み、麗華は小さく笑った。

「そう……やっぱり、そういうことね」

その笑みは、
かつての“少女の嫉妬”ではなく、
大人の“仕返し”の予感を孕んでいた。



夜。
オフィスを出た瑠奈は、
雨の気配を感じながら空を見上げた。

「沈黙が優しさだと思ってた。
でも、本当は、逃げるための言い訳だったんだね」

風が髪を揺らし、
遠くで雷が鳴った。

新しい嵐が、近づいていた。