翌朝。
雨は上がり、街は洗われたように澄んでいた。
ガラス越しの陽射しがデスクに反射し、
昨夜の嵐が嘘のように静かな朝。

瑠奈はいつも通り出社した。
化粧鏡に映る自分の顔は、少しだけ赤い。
眠れなかった。
夜遅くまで頭の中で、悠真の言葉が何度も繰り返されていた。

「壊れてもいい。今度は、俺が全部受け止める」

(……受け止める、なんて言わないで。
 本気で信じたら、また壊れる)

そう思っても、胸の奥は少し温かかった。



午前十時。
オフィスに一つの報せが届く。
総務からのメール、件名は――
《昨夜の残業対応に関する確認》。

開いた瞬間、瑠奈の心臓が止まりそうになった。

――“一条常務と桐山主任が二人で深夜まで残っていた件について、
 安全管理の観点から確認をお願いしたい”

(どうして……)

文章は事務的だ。
だが、“二人きりで深夜残業”という言葉だけが、
社内の噂に火をつけるのに十分だった。

同僚たちの囁き声。
「常務と桐山さん、仲いいよね」
「昨日、帰るとき見たって人がいるらしい」

胸の奥に、冷たい痛みが走る。



昼休み。
会議室に入ったとき、
そこには麗華がいた。

「……麗華さん」
「ねぇ、ちょっと話せる?」

彼女は微笑んでいた。
だがその笑顔は、氷のように冷たかった。

「昨日の夜、残ってたのね」
「仕事の確認をしていただけです」
「そう。
 でもね、そういう“誤解を招く行動”は、
 あなたが一番避けなきゃいけない立場じゃない?」

「誤解、ですか」
「世の中、誰も本当のことなんて見てないのよ。
 “見えること”しか信じない」

麗華の声は静かだったが、
言葉の一つひとつが刃のように鋭かった。

「……あなたは昔からそう。
 黙っていても誰かに守られる。
 でもその沈黙が、いつも誰かを傷つけてきた」

瑠奈は何も言えなかった。

(そうだ。
 私の“沈黙”が、あの頃も麗華さんを傷つけたのかもしれない)

「気をつけてね、桐山さん。
 今のあなたは、誰の言葉より“注目されている”のよ」

麗華は立ち去った。
ドアが閉まった音だけが、会議室に響く。



夕方。
瑠奈のもとに、悠真から社内チャットが届いた。

【すぐに話せるか?】

彼女は少し迷ってから返信した。

【場所は?】
【屋上】

屋上に出ると、
風がまだ雨の名残を運んでいた。

「昨日の件、聞いた」
悠真の声は低く、落ち着いていた。
「俺が対応する。心配するな」
「でも、噂になってます」
「放っておけ。いずれ消える」
「そうやって……いつも黙ってやり過ごすんですね」

瑠奈の声が、風にかき消される。

「私は、もう黙っていたくない」
「瑠奈……」
「私が何を思っていたか、
 あなたが何を選ぼうとしてるのか、
 ちゃんと向き合わなきゃ、また同じことになる」

悠真は言葉を失った。

「麗華さん、あなたのこと、まだ――」
「それは違う」
「ほんとに?」
沈黙。
その沈黙が、何よりの答えに聞こえた。



夜。
帰り道、街の灯がぼやけて見えた。
風が頬を撫で、
信号の光が滲む。

(沈黙を壊しても、また別の沈黙が生まれる……)

瑠奈は小さく笑った。
その笑顔は涙に濡れて、儚かった。