夜のオフィスには、人の気配がなかった。
会議の資料を印刷する機械の音だけが、
静かに響いている。

時計の針はすでに22時を回っていた。
外では雨。
ビルのガラスを伝う水滴が、街の灯を滲ませている。

桐山瑠奈は、デスクに広げた書類を前にため息をついた。
予定していたデータの一部が消えていた。
明日のプレゼンに必要な重要ファイル。
ミスを報告するべきか迷ったが、すでに上司は退社している。

(どうしよう……)

電話を取ろうとして、
ふと背後から声がした。

「桐山さん、まだ残ってたんだ」

悠真だった。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めている。
雨に濡れた髪から、しずくが落ちていた。

「一条さん……」
「連絡が入った。ファイル、消えたって」
「はい。バックアップ探してるんですけど、見つからなくて……」
「一緒に探そう」

彼は迷いなく隣の席に座った。
パソコンの画面に並ぶデータを、二人でひとつずつ開いていく。



外の雨音が、
いつの間にか強くなっていた。

「……あの時と同じだな」
不意に、悠真がつぶやいた。

「え?」
「高校のとき、よくこうして二人で残ってたろ。文化祭の準備で」
「……覚えてるんですね」
「忘れられるわけないよ」

モニターの光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
瑠奈は、キーボードを打つ手を止められなくなる。

(――そんな言葉、ずるいよ)

沈黙。
二人の間を、雨音だけが満たしていた。



「……桐山」
「はい?」
「俺、あの頃……ひとつだけ後悔してることがある」

胸の奥が震えた。

「泣いてた理由、聞けなかったこと」

瑠奈の指が止まった。

「……覚えてたんですか」
「当たり前だろ。
 あの時、俺……聞くのが怖かった。
 理由を知ったら、何かが壊れる気がして」

「壊れたのは、聞かなかったからですよ」

静かな声。
でもその響きは、雨よりも強かった。

悠真が息をのむ。
「桐山……」
「私、ずっと言えなかった。
 泣いたのは、あなたのせいです」

彼の瞳が揺れた。

「麗華さんと一緒に笑ってたあなたを見るたびに、
 胸が苦しくて、でも嫌いになれなくて……」
瑠奈は両手で顔を覆った。
「好きだったんです。ずっと――ずっと、あなたが」

雨音が、世界のすべての音を飲み込む。

悠真は、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
「……俺も、気づいてた。
 でも、怖くて逃げた」

「逃げた?」
「お前を傷つけたくなかった。
 優しくすればするほど、俺自身が苦しくなった」

その言葉に、瑠奈の涙が零れた。
彼の肩に落ちるしずくは、雨なのか涙なのか分からなかった。



「もう逃げません」
悠真の声が低く響いた。
「今さらかもしれないけど――
 俺はあの時から、お前を忘れたことは一度もない」

「……本当に?」
「本当だ」

次の瞬間、
停電のように世界が一瞬暗くなった。
外の雷鳴が光り、二人の影を重ねる。

息が触れ合う距離。

けれど瑠奈は、わずかに顔をそらした。
「……だめです。
 そんなの、今さら信じたらまた壊れます」
「壊れてもいい。
 今度は、俺が全部受け止める」

その言葉は、優しくて、残酷だった。



雨は、やむ気配を見せない。
オフィスの灯りの下、二人はただ見つめ合っていた。

“沈黙”が壊れた夜――
それは同時に、
“言葉にできなかった恋”が息を吹き返した瞬間でもあった。

だが、その雨が止むころ、
また別の嵐が始まることを、
まだ誰も知らなかった。