春。
都心のガラス張りのビルに、
朝の陽光が反射して眩しい。

桐山瑠奈――二十三歳。
桐山ホールディングスの新規事業部に配属されて一年。
穏やかな声で電話応対を終えると、
窓の外に流れる雲をふと見上げた。

(もう、あの春から五年……)

高校を卒業してから、
時間は静かに過ぎていった。
大学では経営学を学び、
卒業後、父の会社に入社。
今では後輩の指導を任されるほどに成長していた。

だが、心の奥では――
あの時、渡せなかった手紙の記憶が
まだ小さく疼いている。

引き出しの奥にしまったままの封筒。
一度も封を閉じなかった白い便箋が、
今も思い出の中で揺れていた。



「桐山さん、午後の会議、取引先から代表が来られます」
秘書課の同僚が声をかける。
「はい。準備しておきます」

瑠奈は資料を整え、ガラス会議室へ向かった。
春の日差しが差し込む中、
ドアを開けると――

そこにいた。

黒のスーツに、端正な横顔。
落ち着いた物腰と、記憶にある優しい声。

「……久しぶりだね、桐山さん」

心臓が一瞬止まったように感じた。
その声を、何度夢で聞いただろう。

「……悠真、くん」

一条悠真。
今や一条グループの若手役員として注目される存在。
高校時代と変わらない穏やかな瞳に、
もうあの頃の迷いはなかった。

「驚いたよ。まさか、桐山ホールディングスと合同プロジェクトを組むことになるなんて」
「……私も、驚きました」

互いに微笑みながら、
その笑顔の奥で、
胸の奥の痛みがゆっくりと蘇る。



会議が始まる。
資料のやり取り、交わされる数字と計画。
けれど、瑠奈の心はどこか遠くにあった。

悠真の声を聞くたび、
五年前の放課後がよみがえる。
夕陽の中、遠ざかっていった彼の背中。
あの「おはよう」だけの最後の会話。

(どうして、今なの……)



会議後、廊下ですれ違ったとき、
悠真が足を止めた。

「桐山」
「はい」
「久しぶりに、少し話せるかな」

静かな応接室。
窓の外では桜が風に散っていた。

「五年ぶりだな」
「……そうですね」
「卒業してから、どうしてた?」
「大学を出て、父の会社に。今はこの部署にいます」
「そうか」
彼は頷いた後、少し言葉を選ぶように間を置いた。

「……あの時のこと、ずっと気になってた」
「え?」
「高校の頃。拓也と話してた日のこと。
 俺、誤解してたかもしれない」

瑠奈の胸が大きく跳ねた。

(――やっと、あの日の話を……)

だが、その瞬間、ドアがノックされた。
「失礼します、一条様、来栖麗華様が――」

扉の向こうに、懐かしい声が響いた。
「お待たせしました。お久しぶりね、瑠奈ちゃん」

来栖麗華。
洗練されたスーツに、落ち着いた笑み。
昔の華やかさをそのままに、
今は一条グループの広報を任されているという。

「まさか、また三人で顔を合わせるなんてね」
麗華の声は柔らかい。
けれど、その奥にある棘を、瑠奈は感じ取っていた。

悠真は、わずかに視線を伏せる。

会議室の外、桜の花びらがガラスに当たって散った。
まるで、時間が再び動き出した合図のように。



その夜。
瑠奈は帰宅して、机の引き出しを開けた。
そこには、あの手紙。
五年間、封もせずにしまっていた一枚の便箋。

指でなぞると、かすかに紙が黄ばんでいた。

「悠真くんへ」

彼の名前を見つめた瞬間、胸の奥が熱くなる。

(もし、今渡したら――
 少しは、違う未来になれるのかな)

外では春の雨が降り始めた。
静かな雨音の中で、瑠奈はそっと目を閉じた。

沈黙の手紙。
それは、まだ届かないまま、
再び彼女の人生に帰ってきた。