三か月の時が過ぎた。
 冬は終わり、街には春の気配が少しずつ戻っていた。
 けれど結奈の心は、まだ冬のままだった。

 父の葬儀からの日々。
 仕事を続けながらも、夜になると無意識に玄関のほうを見てしまう。
 帰ってくるはずの人の靴音を、何度も幻聴のように聞いた。

 ――あの日、彼は何も言わずに出ていった。
 涙を抱きしめてくれたあと、翌朝にはいなかった。

 残されたのは、テーブルの上の一通の手紙。

『結奈が笑えるようになるまで、俺は少し離れる。
泣き顔を見ないうちに、笑顔を取り戻してほしい。
そのとき、迎えに行く。
――一条悠真』

 その字を何度もなぞりながら、結奈は自分に言い聞かせた。
 “信じることも、愛の一つ”だと。



 三か月目の朝。
 会社帰りの足が、ふと止まった。

 街のショーウィンドウには、新作のウェディングドレス。
 白いレースの裾が、風に揺れている。
 反射するガラスに、自分の顔が映った。

 少し痩せたけれど、もう泣いていない。
 目の奥には、あの日よりも強い光が宿っている。

 ――私、ちゃんと笑えるようになった。
 心の中でそう呟いたその時、背後から声がした。

「……やっと、笑ったね」

 振り向く。
 そこに、悠真が立っていた。

 薄いグレーのコート。
 以前より少し髪が伸びて、顔がやつれて見える。
 けれど、その目の奥の優しさは何も変わっていなかった。

「どうして……」
「約束、果たしに来た」
「……笑えるようになったから?」
「ああ。
 でも本当は、君が笑うのを待っていた俺のほうが、
 一番泣きたかった」

 その言葉に、結奈の胸が熱くなる。
 息が詰まり、涙が滲んだ。

「また泣かせるんですか?」
「今度は違う。
 泣いてもいい。もう、“去らない”から」

 その一言で、すべての時間が溶けていく。
 結奈は一歩、彼に近づいた。
 そして、もう一歩。

 距離が消える。
 腕の中に入った瞬間、心が震えた。

「……おかえり」
「ただいま」

 短い言葉。
 けれど、それがすべてだった。



 その夜。
 ふたりは並んで歩いた。
 街路樹の下、白い花びらが舞い始めている。
 沈黙の中に、風の音と心臓の鼓動だけがあった。

「ねえ、覚えてますか?」
「何を?」
「最初の夜。契約書にサインしたときのこと」
「ああ。
 “お互いに不倫自由”って条件、笑えない冗談だったな」
「本気で信じてたんですよ、私」
「俺は、最初から信じてなかった」
「ずるい人」
「うん。でも、君が好きだったから」

 結奈は笑った。
 その笑顔に、悠真も微笑んだ。

 沈黙が続く。
 けれどその沈黙は、もう痛みではなかった。
 互いの存在を確かめる、安らぎの沈黙。



 帰り道、ふたりは小さな教会の前で足を止めた。
 夜の光がステンドグラスに反射して、
 静かに床を照らしている。

「ここ……お父様の葬儀の帰りに、通った場所だね」
「うん」
「誓いを、やり直そうか」
「え?」

 悠真は、ポケットから小さな箱を取り出した。
 開くと、そこには新しい指輪。
 今度は、名前の刻印入り。

“Y&Y ― With tears, with love.”

「泣いても、笑っても。
 どんな君も、俺の妻だ」

 結奈の瞳から、また涙が零れた。
 けれど、それは悲しみではなかった。

「それでも……いいんですか? また泣きますよ」
「構わない。
 君が泣けるほどの愛を、これからもあげたい」

 彼はその指に指輪をはめ、
 そっと額に口づけた。

 鐘が鳴った。
 夜の空に響く、静かな音。

 ――もう、沈黙はいらない。
 言葉にしなくても、誓いはここにある。

 雪のような花びらが、ふたりの肩に舞い落ちた。
 その瞬間、世界が少しだけ温かくなった気がした。