『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

 その夜は、やけに風が強かった。
 秋の気配が混じり始めた夜風が、ベランダの鉢植えを揺らしている。

 結奈は寝室の灯りを消し、ベッドに横たわった。
 けれど、眠れない。
 脳裏に浮かぶのは、冷たい視線のまま職場ですれ違った悠真の姿。
 もう何日、まともに話していないだろう。

 ――このまま終わってしまうのかな。

 そう思いかけた瞬間だった。
 玄関のほうから、かすかな物音がした。

「……悠真さん?」
 時計は午前二時を指している。
 急いでリビングへ向かうと、ドアの前に誰かの影が見えた。

 玄関の扉がゆっくりと開き、黒いスーツのままの悠真が立っていた。
 その姿を見た瞬間、息が止まった。
 顔色が悪い。
 濡れた髪、乱れたネクタイ、足元がふらついている。

「悠真さん……どうしたんですか!」
「……ちょっと、仕事が……長引いて……」
 言い終える前に、彼の身体がふらりと傾いた。

「悠真さん!」
 結奈は慌てて支える。
 熱い。
 腕を握った瞬間、異様な体温の高さに気づいた。

「嘘……こんなに熱があるのに……」
 彼の身体を抱きかかえるようにして、ソファまで連れていく。
 額に手を当てると、熱が掌に伝わってきた。

 すぐに体温計と冷たいタオルを取りに走り、戻ると、彼は浅い呼吸を繰り返していた。
「無理して……どうしてこんなになるまで……」
「……明日、会議が……」
「会議より自分の体のほうが大事です!」
 涙がにじむ。
 怒っているのか、心配しているのか、自分でもわからなかった。

 タオルを絞り、彼の額にそっと当てる。
 その瞬間、悠真の唇がかすかに動いた。
「……ゆきな」
 かすれた声。
 久しぶりに呼ばれた名前だった。

 心臓が跳ねる。

「はい、ここにいます。もう喋らないで」
「……君が、泣く夢を見た」
「夢?」
「俺のせいで、泣いてた」
「そんなこと……」
 結奈は言葉を飲み込んだ。
 胸の奥が熱くなっていく。

「……俺、君のこと……好きなんだよ。ずっと」
 その言葉は、熱に浮かされた呟きだった。
 けれど、どんな告白よりも真実のように響いた。

「――そんなの、ずるい」
 思わず声が震える。
「こんな時に……そんなこと言われたら、困るのに」

 彼は答えず、眠るように目を閉じた。
 その表情は苦しそうで、それでもどこか穏やかだった。



 夜が明けるまで、結奈は一睡もせず、彼のそばに座っていた。
 濡らしたタオルを何度も取り替えながら、
 指先でそっと彼の髪を撫でる。

「あなたは、倒れるまで頑張る人だって、知ってた。
 ……でも、どうして私に頼ってくれないの」

 その声は誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
 ただ、心の奥から自然に零れていた。

 夜明け前、ようやく熱が少し下がり、彼の呼吸が落ち着いた頃――
 結奈は、彼の手を取った。
 温かい手。
 何度もすれ違ってきた指先。

 ――この手を、離したくない。

 そう思った瞬間、涙が静かに頬を伝った。

「……好き、なんです。たぶん、ずっと前から」
 誰にも聞こえない声で呟く。
 その告白は、夜明けの光と共に静かに消えていった。



 朝。
 窓から差し込む光が白いカーテンを透かしていた。
 目を覚ました悠真が、ゆっくりと身を起こす。
 ソファのそばには、眠ったまま寄り添う結奈の姿。
 彼女の頬には乾いた涙の跡。

 悠真はそっと微笑んだ。
 指先で、彼女の髪を撫でる。
 その指がかすかに震えていた。

 ――ようやく触れられた。
 何度もすれ違った指先が、ようやく、同じ温度を持った。