嘘と欲求

 視界が急激に狭まる。ゆるゆると伸ばした手が、伊織の制服に触れようとしている。ふらふらと浮かせた足が、引かれた線を越えようとしている。

 まだ間に合う。ギリギリ間に合う。これを逃せば、もう引き返せない。正しい道へと繋がる経路は絶たれ、戻れなくなる。分かっている。分かっているはずなのに。手も足も止まらない。止められない。口元が無自覚に歪んでいくのも、止められない。

 どろどろの真っ黒な欲求が、脳内を満たしていった。五感の全てが奪われ、正常でなくなっていった。

 瞳孔が開き切っている翔真の指先が、伊織の制服に、カッターシャツに、触れた。瞬間、退路が絶たれた。勝てなかった。目先の欲望と、目先の誘惑に、勝てなかった。

 でも、全部、見つからなければ、そんな事実は、なかったのと同じ。見つからなければ、問題など、ない。

 徐々に、しかし明確に、倫理観が狂い始めていた。軋む歯車に気づいていながら見て見ぬ振りをする翔真は、本能のままに伊織のカッターシャツを掴み取る。両手で広げ、そうするのが当然であるかのように裾の内側を弄った。取り付けられているタグを探し、指先で摘んで確認する。

 表記されていたサイズは翔真と同じ。体型に大差はないのは分かり切っていたが、可視化されたものを目にすることで、より確かな情報となるのだった。

 タグから目を離す。息が苦しかった。そこで初めて、無意識のうちに息を止めてしまっていたことに気づいた。思い出したように呼吸をすると、ふわりと、どこか気を引く匂いが鼻腔を掠めた。手元の衣服からだった。

 翔真は静止して逡巡した後に、ごくりと喉を鳴らした。徐にシャツを顔に近づける。今度は意図的に匂いを嗅ぐための呼吸をする。

 夏であるためか多少の汗臭さはあるものの、顔を歪めてしまうほどの悪臭はしなかった。至って清潔な匂い。長時間でも問題なく嗅いでいられそうな匂い。伊織の匂い。親友の匂い。