嘘と欲求

 名前を呼ばれたのに、翔真は返事もできないまま伊織を見上げ続けた。伊織の手が動く。白い紙を差し出される。翔真の脳裏に疑問符が浮かんだ。伊織がマイペースに喋り出した。

「これ、俺の連絡先」

「……え、れ、れんらく、さき?」

「俺と金輪際関わりたくなかったら、処分していいよ」

 胸に押し付けられ、強制的に受け取らされた。紙の質感を指先に感じる。目を落とす。十一桁の番号が流麗な筆跡で記されている。紛れもなく、スマホの番号だ。これが伊織の連絡先。

「スマホは返したし、俺はもう話すことないし、西原もないんだったら帰っていいよ」

 いきなり連絡先の書いたメモを渡され、当惑する翔真を置いて話を進める伊織。柔らかい語尾でありながらも冷たく突き放すような口調に押し負け、なぜ連絡先を教えてくれたのかという疑問は口にできなかった。

 頭がごちゃごちゃしている。糸が絡まったみたいになっている。一人で落ち着いて、今日あった出来事を整理した方がいい。翔真はメモ用紙とスマホをまとめてポケットに押し込んだ。

 大人しく帰る旨を伝えると、伊織に玄関先まで見送られた。お邪魔しました、と敷居を跨いだ時と同様に、一応の礼儀を払って伊織の家を後にする。名残惜しさの欠片もない淡白な別れだった。

 伊織の家に背を向け、自宅を目指して歩みを進める。ポケットに手を突っ込んだ。メモ用紙を引っ張り出すと、皺が寄ってしまっていた。それでも伊織の筆跡は負けておらず、存在感を失っていない。

 伊織と遠く離れていても連絡が取れる大きな窓口を前に、翔真は深く思い悩んだ。伊織が自身の連絡先を、大事な個人情報の一つを、仲良くなったり気が合ったりしたわけでもない翔真に教えた理由。

 伊織は自分と親しくなりたいと思っているのだろうか。考えて、苦笑が漏れた。親しくなりたいと思っている相手の首を平然と絞める人がどこにいるのだ。