と、右手の廊下の奥、女子寮の方向からひとりの令嬢が歩いてくるのが見えた。薄桃色の髪がわずかに俯いた顔を隠している。フィオナさまだ。
手には、封筒。その中に何が入っているかをわたしは知っている。昼までの課業を終え、二階の職員室へ退学届を提出するつもりなのだ。
そのために、いったん寮に戻り、書類を持ってエントランスを通過する。彼女がとるであろう行動を、わたしは時刻まで含めて正確に予測していた。予測していたのはそれだけではない。その曜日、その時刻に、このエントランスには殿下がいるであろうことも、司書の権限を活用して調べをつけていた。
エントランスに入ったフィオナさまは、その奥で歓談している集団に気がついた。もちろんその中心の殿下にも。足が止まる。と、ご令嬢たちもまた、彼女に気がついたようだった。さすがは女豹、鼻が効く。一斉にフィオナさまの方に顔を向ける。表情に嘲笑が浮かぶ。
わたしはぎゅっと目を瞑り、腹に力を込めた。
行くよ、ノエラ。大書庫の幽霊。
資料室の扉を開ける。廊下に踏み出す。
眼下では令嬢たちがゆらりと立ち上がり、フィオナさまの方へ歩き出していた。戸惑うように彼女たちの顔を交互に見て、胸に手を当てるフィオナさま。
先頭のひときわ化粧の濃い女が口元を覆っていた扇をぱんと畳んだ。それを顎にあて、顔を持ち上げて見下すような視線を投げている。口を、開く。
「ああら……誰かと思えば。なあに、また殿下のお姿を盗み見にいらしたの」
「……い、いえ、ちが……」
フィオナさまは唇を噛み、封筒を抱いて俯いてしまった。女豹の目が光る。
「わたくしたちねえ、あなたのことをとっても可愛らしいご令嬢っていつも噂しているのよ。お顔もお召し物も庶民的で親しみやすいし、子どものように控えめのお身体つきも好ましいわ」
「……そん、な」
「お勉強もよくお出来になるんですってねえ。素晴らしいわ、お相手が見つからなくてもひとり身で家を支えてゆかれるご覚悟なのね。ご実家、領地もお持ちでないから身軽でいらっしゃるのよね。羨ましいわあ、わたくしもあなたみたいに家柄なんて忘れて奔放に殿方を渡り歩いてみたい」
まあ、だの、やだあ、だのといった声がさざ波のような笑いに混じるが、わたしには汚泥が排水溝を流れる音にしか聞こえない。たぶん、その感想はフィオナさまとも共有できている。
なぜなら、フィオナさまがきゅっと眉をしかめ、俯いていた顔を決然と上げたからだ。息を吸い込む。大きな声を出そうとしている。今日が最後、思うことを言って終わろう。そう考えているのが手に取るようにわかった。
駄目。
それは、わたしのしごと。
フィオナさまよりも速く、大きく、肺に空気を入れる。
そう、して。



