落下傘の汚れを落とす為に使う水を張った桶を運んでいる最中、溝に足を引っ掛けて盛大に転んでしまった。
桶が傾き、中の水が一気に溢れ出した。
冷たい水が足元を濡らし、土と混じってはねる。
「いっ……」
膝と手のひらを強く打ってしまう。
「千代、大丈夫?」
近くにいたカエデが駆け寄って、慌てて私の腕を掴み、起こそうとする。
「大丈夫…ありがとう」
立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れた。
溢れた水はすでに地面に染み込み、空になった桶だけが転がっている。
「…が、頑張らないと」
御国の為に、頑張らないと。しっかりしなきゃ、休んでいる暇なんかないのに。
ワレワレ女学生ハ万世一系ノ天皇陛下ノ名ノ下ニ―――。
「千代?」
全テノ能力ヲ、役人スルコトヲ―――眞心ヲペンニ託シテ戦線ヘ。
「千代!!」
呼ばれて、はっとした。 気が付けば、カエデの顔をまともに見ていなかった。
ワレワレ女学生ハ―――。
頭の奥で、また声が立ち上がりかける。
「……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
それ以上考えないように、言葉を被せた。
考え始めたら、立っていられなくなりそうだったから。
カエデの声はまだ近くにあったけれど、私は曖昧に笑って、落ちていた桶を拾い上げた。
軽いはずの木桶が、ひどく重い。
「うん。ちょっとつまずいただけ」
そう言って、水を汲みに行こうと一歩踏み出す。
膝が、きしりと嫌な音を立てた気がした。
でも、目も見えて耳も聞こえる。
歩ける。
それなら、問題ない。
「……本当に大丈夫?」
エツ子がいない分、私達が頑張らないといけないのに......!
痛い、というよりも、熱い。
でも、痛いなんて口に出せる空気じゃなかった。
一人減った分を、残ったみんなで埋めなければならないから。
御国の為に。
女学生として。
役に立つ存在でいるために。
その言葉を、何度も何度も頭の中で復唱する。
呪文みたいに。
呪文のように繰り返しているうちに、言葉は意味を失っていった。
意味のない言葉が頭の中を巡るまま、私は歩いた。
「さぁ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。今世紀最大の奇術ショーだよ〜!」
突如として公園内に響く男性の声。その男性を包む歓声で、私はふと立ち止まった。
子供達の視線は一人の男性に集中している。銀糸を織り込んだ、やたらと派手なえんじ色の燕尾服を着ている男性。
彼を見た瞬間、私は「あっ!」と声を上げていた。
「本日のお客様のお相手は、西洋奇術で同じみのわたくし八雲!八雲がお送りする―――摩訶不思議な奇術の数々をとくとご覧あれ!」
(変な奇術師さんっ!)
色素の薄い髪と片眼鏡に派手な燕尾服。柳子と一緒に歩いている時に声を掛けてきた、あの奇術師本人に違いなかった。
子供達の歓声の中、八雲は羽根の付いた帽子を子供達の視線に合わせるように見せた。
「今日は何を出してほしいんだい?」
「あのね、大きなゾウさん!」
「オレ、こーんくらい大きなおにぎり!」
「食べ物は出せないのだよ......」
「ちぇー」
「じゃあ、軍艦!」
私は呆然としたまま、万国旗やら花束やら鳩などを次から次へと帽子の中から出して見せる彼を見ていた。この状況が全くもって理解出来ない。呑気に手品などを披露している場合ではないだろう。
「さぁ、次はお嬢ちゃんのリクエストであるインドゾウのローラちゃんを出してみるのだよ!見事成功しましたらご喝采!」
三、二、一。パチンと指が鳴るのと同時に、大きな象が現れた。
象はゆっくりと公園の芝生を踏みしめ、鼻をゆらゆら揺らした。子供達は歓声を上げ、走り寄っては手を叩く。
しかし、その瞬間、背後で制服姿の男性が足を止めた。手を腰に当て、眉をひそめる。白い腕章には『憲兵』と書かれている。
「貴様、何をしている!!即刻中止しろ!」
憲兵さんは万国旗を持っていた八雲さんが動揺する間もなく、憲兵さんは一歩前に出て、八雲さんの手を掴む。
「軍令違反だ!公共の場での奇術行為は認められん!」
「僕がしていたのは奇術ショーなのだよ」
いそいそと万国旗を片付けながら帽子を被る八雲さん。
いつの間にか象は消えていた。
それでも憲兵は一歩も引かない。
突然、八雲の肩に手をかけ、腕を後ろに回す。
「今こそ国民皆団結して鬼畜米英に立ち向かう時だろう!」
そのまま、八雲さんは無理やり立たされ、子供達の前で押さえつけられる。
しかし、こんな状況になってもへらりとしている八雲さんの表情に反省の色は見えない。
「憲兵さん、お仕事お疲れ様です」
そう八雲さんが言った途端、いとも簡単に憲兵さんの手を振り解いた。
「では、また」
帽子の砂埃を払い落とし、ニコッと笑って走り去ってしまう。
憲兵さんは顔を歪めながら八雲さんの後を追って公園から出て行った。
桶が傾き、中の水が一気に溢れ出した。
冷たい水が足元を濡らし、土と混じってはねる。
「いっ……」
膝と手のひらを強く打ってしまう。
「千代、大丈夫?」
近くにいたカエデが駆け寄って、慌てて私の腕を掴み、起こそうとする。
「大丈夫…ありがとう」
立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れた。
溢れた水はすでに地面に染み込み、空になった桶だけが転がっている。
「…が、頑張らないと」
御国の為に、頑張らないと。しっかりしなきゃ、休んでいる暇なんかないのに。
ワレワレ女学生ハ万世一系ノ天皇陛下ノ名ノ下ニ―――。
「千代?」
全テノ能力ヲ、役人スルコトヲ―――眞心ヲペンニ託シテ戦線ヘ。
「千代!!」
呼ばれて、はっとした。 気が付けば、カエデの顔をまともに見ていなかった。
ワレワレ女学生ハ―――。
頭の奥で、また声が立ち上がりかける。
「……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
それ以上考えないように、言葉を被せた。
考え始めたら、立っていられなくなりそうだったから。
カエデの声はまだ近くにあったけれど、私は曖昧に笑って、落ちていた桶を拾い上げた。
軽いはずの木桶が、ひどく重い。
「うん。ちょっとつまずいただけ」
そう言って、水を汲みに行こうと一歩踏み出す。
膝が、きしりと嫌な音を立てた気がした。
でも、目も見えて耳も聞こえる。
歩ける。
それなら、問題ない。
「……本当に大丈夫?」
エツ子がいない分、私達が頑張らないといけないのに......!
痛い、というよりも、熱い。
でも、痛いなんて口に出せる空気じゃなかった。
一人減った分を、残ったみんなで埋めなければならないから。
御国の為に。
女学生として。
役に立つ存在でいるために。
その言葉を、何度も何度も頭の中で復唱する。
呪文みたいに。
呪文のように繰り返しているうちに、言葉は意味を失っていった。
意味のない言葉が頭の中を巡るまま、私は歩いた。
「さぁ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。今世紀最大の奇術ショーだよ〜!」
突如として公園内に響く男性の声。その男性を包む歓声で、私はふと立ち止まった。
子供達の視線は一人の男性に集中している。銀糸を織り込んだ、やたらと派手なえんじ色の燕尾服を着ている男性。
彼を見た瞬間、私は「あっ!」と声を上げていた。
「本日のお客様のお相手は、西洋奇術で同じみのわたくし八雲!八雲がお送りする―――摩訶不思議な奇術の数々をとくとご覧あれ!」
(変な奇術師さんっ!)
色素の薄い髪と片眼鏡に派手な燕尾服。柳子と一緒に歩いている時に声を掛けてきた、あの奇術師本人に違いなかった。
子供達の歓声の中、八雲は羽根の付いた帽子を子供達の視線に合わせるように見せた。
「今日は何を出してほしいんだい?」
「あのね、大きなゾウさん!」
「オレ、こーんくらい大きなおにぎり!」
「食べ物は出せないのだよ......」
「ちぇー」
「じゃあ、軍艦!」
私は呆然としたまま、万国旗やら花束やら鳩などを次から次へと帽子の中から出して見せる彼を見ていた。この状況が全くもって理解出来ない。呑気に手品などを披露している場合ではないだろう。
「さぁ、次はお嬢ちゃんのリクエストであるインドゾウのローラちゃんを出してみるのだよ!見事成功しましたらご喝采!」
三、二、一。パチンと指が鳴るのと同時に、大きな象が現れた。
象はゆっくりと公園の芝生を踏みしめ、鼻をゆらゆら揺らした。子供達は歓声を上げ、走り寄っては手を叩く。
しかし、その瞬間、背後で制服姿の男性が足を止めた。手を腰に当て、眉をひそめる。白い腕章には『憲兵』と書かれている。
「貴様、何をしている!!即刻中止しろ!」
憲兵さんは万国旗を持っていた八雲さんが動揺する間もなく、憲兵さんは一歩前に出て、八雲さんの手を掴む。
「軍令違反だ!公共の場での奇術行為は認められん!」
「僕がしていたのは奇術ショーなのだよ」
いそいそと万国旗を片付けながら帽子を被る八雲さん。
いつの間にか象は消えていた。
それでも憲兵は一歩も引かない。
突然、八雲の肩に手をかけ、腕を後ろに回す。
「今こそ国民皆団結して鬼畜米英に立ち向かう時だろう!」
そのまま、八雲さんは無理やり立たされ、子供達の前で押さえつけられる。
しかし、こんな状況になってもへらりとしている八雲さんの表情に反省の色は見えない。
「憲兵さん、お仕事お疲れ様です」
そう八雲さんが言った途端、いとも簡単に憲兵さんの手を振り解いた。
「では、また」
帽子の砂埃を払い落とし、ニコッと笑って走り去ってしまう。
憲兵さんは顔を歪めながら八雲さんの後を追って公園から出て行った。



