パーティーでの激しい衝突以来、蓮と結衣の間に流れる空気は、もはや氷点下だった。二人は、同じ屋根の下にいるにもかかわらず、完全に心を閉ざし、必要最低限の事務的な連絡すら、秘書を通して行うようになった。

東條邸の静寂は、二人の心の距離をそのまま反映しているようだった。
数日後、蓮が深夜に帰宅した際、書斎スペースのデスクに、封筒が置かれているのを見つけた。それは、結衣の筆跡で書かれた、簡素なものだった。

蓮は、ためらいながら封筒を開けた。中には、婚約指輪と、一枚の手紙が入っていた。

『拝啓、東條蓮様。
これ以上、あなた様の隣にいることが、私の心の健康を保てそうにありません。
契約期間はまだ残っておりますが、一度実家に戻らせていただきます。
高瀬アパレルの負債は、東條様のご支援により、ほぼ目途が立ちました。残りの契約については、改めてご相談させていただきたく存じます。

高瀬 結衣』


手紙は、冷たく、感情が一切含まれていなかった。まるで、ビジネス文書のようだ。
蓮は、その手紙を読んだ瞬間、激しい動揺に襲われた。結衣が、本当に自分から離れていこうとしている。

彼女の「私から離れられないようにしてやる」という自分の言葉が、彼女の心を完全に破壊したのだと悟った。
蓮は、デスクを強く叩き、怒りと後悔に顔を歪ませた。
「馬鹿なのは、俺だ……!」

彼は、自分が小さな頃から秘めてきた純粋な恋心を、嫉妬と独占欲で汚し、自らの手で、結衣を遠ざけてしまったことを痛感した。

蓮は、すぐさま結衣の実家、高瀬邸に向かった。
深夜にもかかわらず、高瀬邸の玄関のチャイムを鳴らす。出てきたのは、驚いた顔の結衣の父だった。
「蓮様! どうされたのですか、こんな時間に」
「お義父様。結衣は、いますか。話がしたい」

蓮のただならぬ気迫に、父は二階の結衣の部屋へと案内した。
部屋のドアを開けると、結衣はソファで静かに座っていた。彼女の瞳は、蓮に対する、深い警戒と、諦めに満ちていた。
「どうして、ここまで来たのですか。契約のことは、改めて弁護士を通して――」

結衣は立ち上がろうとしない。その拒絶の態度に、蓮の胸は張り裂けそうになった。
蓮は、ドアを閉め、結衣の前に、ひざまずいた。
「結衣。すまなかった」

蓮の、感情のこもった、絞り出すような謝罪の言葉に、結衣は目を見開いた。冷徹な御曹司が、自分の目の前で、頭を下げている。
「何を、おっしゃっているのですか。蓮様。あなたは契約通りに動いただけです。謝罪など……」
「違う! 契約など、どうでもいい!」

蓮は、テーブルに手を突き、顔を上げた。その瞳には、今にも零れ落ちそうな、切ない涙が浮かんでいた。
「君の言う通りだ。佐伯という男に嫉妬し、感情に任せて、君を傷つけた。全て、私の過ちだ」

蓮は、深呼吸をして、結衣の目を見つめた。彼の冷たい仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「君が、他の男の隣で、あんなに穏やかな顔で笑うのが……許せなかった」
「なぜ、そんなに……」

結衣が問うと、蓮は、堰を切ったように、真実を告白し始めた。

「なぜ、私が君を契約という鎖で繋ぎ止めたのか。なぜ、君の大学の時の資料を集めていたのか……」
蓮は、震える声で、続けた。
「私は、小さな頃から、ずっと君のことが好きだったんだ。君が、俺に初めて優しくしてくれた、あの時から、ずっと」

蓮は、ポケットから、結衣が返したはずの婚約指輪を取り出し、その指輪を握りしめた。
「君を、遠くから見守ることしかできなかった。君は、あまりにも眩しくて、俺なんか、ただのビジネスの話でしか、君の隣には立てないと思った」
蓮の瞳から、一筋の涙が零れた。

「高瀬の危機を知ったとき、これは、神様が俺にくれた最後のチャンスだと思った。政略結婚という形なら、君は拒絶しない。君を救うことができる。そして、君は、俺の隣にいてくれる……」

蓮の告白は、切なさと、あまりにも純粋すぎる想いに満ちていた。結衣は、動揺と、胸を締め付けられるような痛みに、声が出ない。
「だから……契約という仮面を被った。君に、自分の重い愛を知られたくなかったからだ。愛ではない、義務だと思ってくれた方が、君は楽だろうと思ったからだ……」

蓮は、嗚咽を堪えるように、言葉を途切れさせた。
「だが、君が、他の男と楽しそうに話すのを見て、俺は理性を失った。契約を盾に、君を支配しようとした。全部、嫉妬だ。自分勝手な、俺の独占欲だ……」

蓮は、静かに、結衣の前に頭を下げた。
「すまない。君の幸せを願う気持ちは、本物だ。だが、君を、手放したくないという気持ちも、本物だ。……もう、契約は必要ない。君を傷つけるくらいなら、契約を破棄する。ただ……」

蓮は、顔を上げ、涙を滲ませた目で、結衣を見つめた。
「君は、昔の俺を、少しでも思い出してはくれないか?」

結衣は、静かに涙を流していた。
目の前でひざまずく蓮は、彼女が知っていた冷徹な御曹司ではなく、ただ、一途な愛を秘め、不器用に傷ついてきた、孤独な少年だった。

(あの冷たい態度は、全部、私を想う気持ちの裏返しだったのね……)
結衣の心にあった、蓮への憎しみや不信感は、雪が解けるように消えていった。残ったのは、彼に対する、深い憐憫と、そして、胸を熱くする感動だった。

結衣は、ゆっくりと立ち上がり、蓮の前に座り直した。そして、自分の手で、蓮の頬に触れた。
「蓮様。どうして、あの時、言ってくれなかったのですか。契約ではなく、あなた自身の言葉で……」
蓮は、結衣の温かい手に、目を閉じた。

「言えなかった。怖かった。……政略結婚でしか、俺は、君を捕まえられないと思っていたからだ」
結衣は、蓮の手を握りしめた。彼の指は、まだ冷たかったが、その手のひらからは、熱い愛の鼓動が伝わってくるようだった。

「わか、りました。私も、佐伯先輩のことで、あなたを傷つけてしまった。ごめんなさい」
結衣は、静かに言った。
「蓮様。私は、あなたの冷たい仮面の裏に、こんなにも切なくて、一途な愛があったことを、知りました。もう、あなたは一人ではない」
「結衣……」

蓮は、結衣の手を両手で包み込み、そして、静かに、彼女の手にキスをした。そのキスは、契約ではなく、愛の始まりの、静かな、そして切ない誓いだった。
契約という偽りの鎖は、今、二人の真実の愛によって、静かに断ち切られた。